桜の雨が降る 1部3章3
「帰ろっか」
「もうお仕事終わりなの?」
「うん」
螺旋階段を四階まで登ると、廊下にさっき食堂でレジに立っていた人がいた。
薄茶色のセミロングヘアの少女。優桜たちとそう変わらない年齢だろうか。
「ニナ、お疲れ様!」
メリールウが明るく声をかける。
「お疲れ様。メリールウ」
少女は微笑んで手を振ると、扉を開けて中に消えた。その扉の前を通り過ぎ、メリールウは自宅のドアを開けた。
「今はもう休んでいいよ。六時過ぎたらウッドが一緒に晩ご飯食べよって。明日は一日お休みだから」
「あの、そんなに休んで大丈夫なんですか?」
働いた時間はひどく短い。それなのに休みがあっては収入は極端に少ないだろう。さっきの言葉通り、今週の勤務が今日と明後日だけなら週休五日ということになる。どう考えても休みすぎだ。
優桜にはアルバイト経験がないが、花音が週に三日ほど、部活が終わってから居酒屋のアルバイトをしている。本当はもっと入りたいらしいがそうもいかず、時給上がらないかなとぼやいていたことがあった。
学生であるとはいえ、週三日程度では満足な賃金は得られないのだ。メリールウはこれを本職にしているようだが、それで大丈夫なのだろうか。
「前は週に四日だったのよ。でも、今は二日か三日なの」
「不況で?」
メリールウの返答は思いがけないものだった。
「ううん。ユーサが入ることになったから」
「あたし?」
訳がわからず、優桜は目を丸くした。
「困ってる人がいたら、お仕事は少なくなるのよ」
相変わらず、メリールウの説明は的を得ない。根気よく聞いていって、優桜はようやくこの食堂の雇用制度を自分のわかる言葉に直すことができた。
ワークシェアリング。一人あたりの労働時間を減らすことで、全体での雇用を確保するというものだ。
聞けば、ウッドは生活に困っている人たちに仕事を与えるために自分のビルの一階を食堂に改装し、そこに仕事を作ったのだという。幸いなことに近隣のオフィス街から顧客を得て、食堂は優桜が今日経験したような繁盛につながり雇用を持続することができた。ビルの四階にあるこのアパートも、元々は困った人の当座の住まいになるようにと改装したのだそうだ。
しかし、ウッドを頼ってくる困った人は減るどころか増える一方だ。食堂の仕事だけではまかないきれないし、新規に仕事を開拓する場所が簡単に出てくるわけでもない。
ウッドは考えた末、ワークシェアリングを導入した。労働時間は減るが、最低限の暮らしは保証する。それで足りないとなれば出て行って他の儲かる仕事に自分でついてくれ、と。従業員もそれを理解して働いている人たちばかりだという。
「凄いんだね」
三十歳にもならない人が作ったとすれば凄いことだ。たとえこの世界の三十歳がもっと年上だとしても。優桜の父も同じように経営者だが、現在の収入を支えるので手一杯のようだから。
「でしょでしょ? ウッドは凄いのよ」
メリールウがわがことのようににこにこする。
「ユーサ、元気? 大丈夫?」
唐突に質問が変わり、優桜は曖昧に頷いた。
「うん、大丈夫だけど?」
「大丈夫だったら、時間まで外に出ない? 必要なもの買いにいかなくちゃ」
確かに、昨日は何とかなったが生活必需品がないと困る。不本意とはいえどうやら長期滞在しなければならないようだから。
優桜が頷くと、メリールウは着替えるから待ってとロフトに上がっていった。準備が終わるのには三十分以上かかった。髪をおろし、化粧を終えたメリールウは昨日と同じくらい派手になっていたが、優桜はそちらのほうがメリールウには似合うと思った。食堂で泡にまみれて食器を洗っているより、着飾って酒場で歌い手をしていた方が似合うとでもいうのだろうか。おそらく偏見なのだろうが。
メリールウと一緒に出かけた街は、相変わらず現代と同じようで現代ではないという不思議な場所だった。聞こえてくる言葉は意味はわかるものの日本語ではなく、看板の文字は読めない。店頭には時折見たこともないようなものが普通の顔で置かれていて、どういうわけか宝石店がやたらと目立った。行き交う人たちは半分以上が日本人ではない。
ふと、優桜はあることに気づいた。
いろいろな人種と簡単にすれ違うが、メリールウのような褐色の肌の人とは一度もすれ違っていないのだ。それに気づいてから注意して人波を見るようになったのだが、メリールウと同じ人はいない。
そういえば、行き交う人たちはメリールウに視線を注いでいく。メリールウが目立つからだと思っていたが、そもそもなんで彼女は目立っているのだろう。いろんな国の人がいるのなら、メリールウと同じ人がいたっておかしくないはずだ。
買い物を終えて立ち寄ったジューススタンドで、優桜はメリールウに聞いてみた。
「メリールウってどこの人なの?」
「どこの、って?」
ストローに息を吹き込んでジュースを泡立たせるという、子供のようなことをやっていたメリールウが顔を上げる。
「メリールウみたいな肌や髪の人を見ないから」
「ああ、そういうことか」
メリールウは納得したように頷くと、口を開いた。
「あたし、放浪者(ワンダラー)なのよ」
声音はどこか誇らしげでさえあった。
「わんだらー?」
意味のある言葉なのだろうが、優桜にはわからない。
「ユーサ、放浪者も知らない?」
優桜は頷いた。初めて聞いた言葉だ。
「むかしむかしの一族だよ。南部に住んでたの。だから褐色の肌と、明るい色の髪。歌ったり踊ったりが大好き。でも、あんまり目立つから、王様に「気に入らない」って滅ぼされちゃった」
「え?!」
人種差別ということなのだろうか。それにしても気に入らないからというのは酷すぎる気がする。
「何人かは生き残ったけど、ばらばらになった。南部からも追い出された。だから、今は放浪者はとても少ない。あたしとおんなじ人、会ってみたいけどあたしはどこにいるのかわかんない」
「わかんないって、メリールウのご家族は?」
メリールウは困ったように眉を下げ、首を振った。
「お父さんとお母さんは内戦で死んじゃったの。兄弟はいるのかなあ。わかんないよ」
「ごめんなさい」
思いがけず出てきた暗い話題に、優桜は頭を下げた。メリールウが十八歳、内戦が終わったのが十八年前なら、確かに彼女の両親は内戦に巻き込まれた世代だ。
「気にしない、気にしない!」
メリールウが優桜の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「過去にとらわれてもきっとしょーがない。あたしはいつか仲間に会える日が来るし、ユーサもウッドのいうこと聞いてればおうちに帰れるよ」
「おうち、か」
今頃どうなっているんだろうと、優桜はその時考えた。
父が真っ青になって心配しているように思う。母はあの後どうなったんだろう。無事なのだろうか?
こんなことになるなら酷いことを言わなければよかったと後悔した。反面でやはり曲がったことをした母を許せないという感情があり、複雑な思いがどす黒い渦になって、優桜の胸の中でぐるぐるした。
「ユーサ?」
メリールウがひらひらと優桜の前で手を振る。
「あ、ごめん」
「そろそろ六時だね。ビルまで戻ろ?」
メリールウが立ち上がる。確かに行き交う人の量はさっきより多くなっていた。
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