桜の雨が降る 1部2章3

戻る | 進む | 目次

 手足に何かが当たっていて伸ばせない。不愉快な臭いがする。
 優桜が目を開けると、時刻は既に夜になっていた。最初は視界が真っ暗だったが、徐々に目が慣れてくるとゴミ捨て場にいることがわかった。路地の袋小路に、残飯や壊れた家電などの大量のゴミが捨てられている。
 優桜は慌てて起き上がると、頭や服についていたゴミを払い落とした。
「どうなったんだっけ」
 確か、車の前に飛び出してしまったのだ。そこから母の夢を見た気がするが、今自分を見回してみるとどうやら生きているらしい。痛みはないし、身体も普通に動かせる。腕にペンダントの鎖が巻き付いてしまっているのを見て、優桜は鎖をほどくとペンダントをセーラー服のポケットに入れた。
 周囲を見回してみたが、どう見ても病院の近所ではなかった。高い建物に三方をぐるりと囲まれた袋小路だ。建物の壁は赤い煉瓦でできていた。病院の近隣は民家で、こんな建物はなかったと記憶している。
 優桜は立ち上がると、袋小路から出た。そして仰天した。
 そこは知らない街並みだった。おそらくは繁華街と呼ばれる場所なのだろう。色とりどりのネオンサインがきらめき、たくさんの人が行き交う。雑踏と呼び込みの声、店先から流れる音楽が混ざり合って街のざわめきになる。
 優桜は繁華街に入ったことがないのだが、テレビでちらりと見たものによく似ていた。けれど決定的に違うことがあった。
 看板に書かれた文字を読むことができなかったのだ。
 知らない文字。一瞬英語かとも思ったのだが、並び順がメチャクチャだし知らない文字もある。よく見れば、行き交う人々の半数以上が日本人ではない。髪の色も顔立ちもまるで違っている。
 人々がかわす言葉も違う。耳に聞こえるのは日本語ではなく、優桜の知っているどの言葉とも違う音だった。それなのに頭の中ではきちんと翻訳される。もう訳がわからない。
 優桜の記憶の中でいちばん知っているものに近いとすれば、海外の繁華街だ。どう考えても、ここは日本ではない。よくよく見れば、空で光っている月の色が青い。
「どうなってるの?」
 優桜は思わず頭をおさえた。
 街角で立ちつくす少女に、誰も目もくれない。皆足早に通り過ぎていく。
 もしかして、ここが黄泉路なのだろうか。全世界の死者が集まり、この繁華街を抜けて天国にたどり着くのだろうか。
 そんな想像をして、優桜はすぐに首を振った。死後の世界と呼ぶには、ここは現実感がありすぎる。
 では、ここは一体どこなのか。自分は一体どうなったのか。
「どうしよう……お母さん、お父さん」
 思わず両親に助けを求め、首を振って打ち消した。携帯電話を取り出して明水に連絡しようとしたのだが、発信音が聞こえず見てみると表示が圏外になっていた。
(ここ、どこなの?!)
 パニックに陥った優桜は自分の知っているものを求めて街をあちこち駆け回ったが、どこまで行っても自分の読める看板はなく、相変わらず雑踏の音は自分になじみのない物ばかりだった。
 時間だけがどんどんと過ぎていき、優桜はすっかり疲れてしまった。お腹も空いてきたところで、パンを売っている店に出会った。
 見たことのあるパンも、見たことのないパンもあった。どれもとても美味しそうだ。
 おそるおそる店に入ると、店員と目が合う。こんばんはと声をかけると、店員が笑顔で「いらっしゃいませ」と頭を下げてくれた。不思議なことこのうえないが、どうやら言葉は通じているようだ。
 そのことにほっとして、優桜は数種類のパンを選ぶとレジに持って行った。レジの女性はパンを袋に詰めるとレジスターを叩き、「四エオー五十三フェオです」と言った。
「え?」
 千円札を出そうとした優桜の手が止まる。
「四エオー五十三フェオです」
 それが通貨の単位だと気づくまで少しかかった。隣のレジの客が訝しげに優桜を見ている。彼が払っているのは金貨で、優桜が見たことのないものだった。
「あの、やっぱりいいです」
 優桜はやっとそれだけ言うと、店から飛び出した。足が向くままに路地を走る。
 通貨単位が違うということは、何も買えないということだ。食べ物も飲み物も。夜がだいぶふけてきたが泊まるところもない。このままでは、きっと遠くないうちに死んでしまう。
 襲ってきた絶望感はあまりに酷かった。優桜は倒れこむように路地の、石段に座り込んだ。膝を抱えてそこに顔を伏せ、声を殺して泣きじゃくる。
 泣くのは恥ずかしいことだし、何にもならないとわかっていたが涙が止まらなかった。こんなことははじめてだった。夜の街角で泣き続ける少女を、街の人はちらりと見たきり足早に通り過ぎていく。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。人の話す声に、優桜は顔をあげた。
 いつの間にか、数人の男性が優桜の前に立っていた。黒髪、茶髪、金髪。髪の色がそれぞれ違うが、服装は似たようなもので、色こそ黒系統の地味なものなのだが、光沢のある派手なデザインのスーツ姿だった。ネクタイはしていない。首や手で銀のアクセサリーがネオンの光を安っぽく反射している。男達はにやにやと笑いながら、優桜を足下から頭の先まで舐めるように見ていた。
「どうしたの? 何でこんなところで泣いているの?」
 男のひとりが優桜に手を差し出した。強い香水の匂いがした。
「ひとりで泣いてると暗くなるよ。どう? オレたちと遊ばない?」
 その軽い言い方に、優桜は眉を寄せた。遊び人を優桜は好かないのだ。
「すみません。帰ります」
 言って、優桜は逃れようとしたのだが、手を差し出したのとは別の男に行く手を阻まれた。
「え? でも君ずっと泣いてたじゃない。どこに行くのさ」
「それは」
 言葉に詰まった優桜に、男達は視線を交わして笑い合った。
「泊まるとこないならオレらとおいでよ。いいトコ紹介するよ」
「そうそう。君くらいのかわいいコなら何の問題もない」
 男の一人に、優桜は強い力で腕をつかまれた。テレビを見ない優桜でも、今が危険な状況であることは充分に察せられた。どこかに連れて行かれて、売り飛ばされてしまうのだ。
戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 2010 Noda Nohto All rights reserved.
 

このページにしおりを挟む

-Powered by HTML DWARF-