桜の雨が降る 1部1章9
優桜は久しぶりに病院に行った。
明水に頼んで、病室には一緒に入らないでもらった。病室は相変わらず暖かで、淡い色の花が活けられ、母はそのままだった。
少し痩せたようにも思えたのだが、よく注意して見なければ気づかないほどで、顔色だって悪くはないと思う。あたたかな暖房のきいた病室で手厚い看護を受けているのだから当然か。
眠っている母を、椅子に座らないで見下ろす。
無防備な寝顔に、なぜか腹が立って仕方なかった。
「お母さん……」
何で嘘をついたの。何であたしに黙っていたの。どうして人殺しなんかしたの。どうして罪も償わず、のうのうと弁護士になんかなったの――?
なんで、どうしてという言葉が繰り返し頭の中で渦巻いた。
(ごめんなさい、明水兄ちゃん)
優桜は心の中で明水に詫びた。
今の優桜は、とても母を許すことは出来ない。
どんな理由があるのだとしても、母がしたことは悪いことだ。過去から逃げるようにひた隠しにして、時効は過ぎていたとしても、悪いことに変わりはない。
『自分のしたことが身に返ったんだろうなあ』
あの事件記者の言葉が耳に蘇る。その通りだと優桜は思った。
母の枕元に下げられたお守り袋が目に止まる。
(お母さん。貴方は償うべきだよ。守られるわけがない)
優桜はそれをひったくると自分のポケットに入れ、病室を出た。
*****
病室を出ると、明水が待っていた。優桜が明水に「今は母を許せない」と告げると、明水は困ったように頷いた。
明水は長い付き合いで、優桜の一度決めたことは曲げない強情さを知っているから、病院という公共の場で説得するのは避けたのだろう。事なかれ主義にしているわけではないのは、彼のもの言いたげな瞳から充分察せられた。
「遅くなったから家まで送りたいんですけど、これから授業なんです」
病院を出たところで、明水は申し訳なさそうに言った。
「うん。大丈夫。気をつけて帰るから」
「家に着いたらメールを下さい。授業終わったら返します。それで、何でもいいから、連絡を下さい。今日の授業はどうだったとか、お昼に何食べたとか、そんな下らないことでいいから。電話でも、メールでも」
明水の気遣いが痛いくらいに伝わってきて、優桜は泣き笑いになった。
「ありがとう。でも、明水兄ちゃん心配性すぎるよ。たかがイトコに」
「たかがじゃないですよ。大事な従妹です」
言葉にはそれ以上の意味はないとわかりながら、優桜の中に久しぶりにくすぐったい暖かな気持ちが湧き上がってきた。
じゃあねと手を振り、バス停へと向かう。その優桜の前に、人影が立った。
「久しぶり。優桜ちゃん」
にやにやと笑う灰色のコートの男は、事件記者の柴田だった。優桜に母の隠していた真実を突きつけた、あの。
「随分お見舞いにこなかったね。ずっと待ってたのに」
暖かかった気持ちが瞬時に冷めた。優桜は無言で脇を通り過ぎようとしたのだが、柴田に阻まれた。
「なあ、どうだった? 本当だったろう?」
「離して!」
つかまれた手を、優桜はふりほどこうとした。しかし、柴田は手を離さず、顔を近づけるようにして優桜に迫った。
「お前の母親は犯罪者だっただろう? どうしようもない嘘つきのあばずれだっただろう? 証言してくれよ、なあ、『あたしのお母さんは人殺しでしたと』、その真実をしっかり話してくれよ!」
他の人に言われたことで、優桜の目に涙が浮かんだ。なんでこんな風に言われなければならないのだろう。母の何も知らないくせに。知らなければ幸せだったのに。大好きな母のままだったのに。
もみ合う気配に、通りの反対側を歩いていた明水が気づいた。見知らぬ男に腕をつかまれ、迫られている従妹の姿に、彼は大声を上げた。
「ユウ?!」
「明水兄ちゃん!!」
優桜の振り払おうとした肘が、柴田の顔面に当たった。腕の力が緩み、優桜は柴田を突き放すと、明水がいる道路の反対側に逃げ出そうとした。
そこに、角を曲がってライトバンが突っ込んできた。
「――ッ!」
避けられない。車と体が接触しようとした瞬間、青い光が優桜を包んだ。それを、明水は確かに見た。
「ユウッ!!」
直後に、耳をつんざくようなブレーキ音がして、明水は思わず目を閉じた。タイヤの焦げる臭いが辺りに充満する。
「ユウ! ユウッ!」
明水は狂ったように名前を呼ぶと、車の前方に回った。車からも真っ青になった会社帰りらしい男性が降りてきて、轢かれてしまった少女を確認しようとした。
しかし、そこには誰もいなかった。
(え……?)
撥ね飛ばされたわけではない。慌ててしゃがみこみ、車の下を確認するが巻き込まれてもいない。
ただ、古びた桃色のキルトで作られたお守り袋だけがそこに落ちていた。冬の風に飛ばされそうになるそれを、慌てて明水は拾った。
「今、僕確かに轢きましたよね?」
男性の間の抜けた主張に、明水は何も返すことが出来なかった。
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