桜の雨が降る 1部1章8
その日から、優桜の世界は暗く冷たいものになった。
父とは一言も話さない。学校には行くが、授業を聞いてはいなかった。放課後はその日の気分次第で部活に出たり街をぶらついたりしていた。病院には行かなかった。
「優桜、どうしちゃったんだろう」
移動教室から自分のクラスに戻ってきた有希は、そう花音に話しかけた。
「教室を間違えて遅刻してくるし、授業は全然聞いてない。凄く思い詰めた顔して手元を見てるだけ」
「部活の時も剣筋が乱れて、主将に怒られてた。グラウンドをランニングさせられたんだけど、三周って言われたのになかなか帰ってこないんで見に行ったら延々走り続けてて」
「うわあ……」
奇行を通り越した行動に、有希は眉をしかめた。
「優桜が今凄くたいへんなのは知ってるよ。でも、これはおかしいよ。優桜、何かあったのかな?」
花音がふるふると首を振った。左右の三つ編みが一緒に揺れる。
「どうしたのって聞いたんだけど、ほっといてって言われちゃった。そう言われたらもう、何もできないんだよね」
有希は何も言えずに黙ってしまった。
花音だって放っておきたいわけがないのだ。けれど、踏み込んでいくにはあまりに事情が重かった。元気出して、お母さんすぐ治るよ、とうわべだけの声をかけることはできるだろうが、それで何が解決するわけでもない。それ以外にできる方法も思いつかなかった。
「優桜って結構、悩み激しいもんね」
優桜は友人相手に愚痴をもらす子ではないのだが、それでも一緒に行動していれば、父親の厳しさとそれに反発している様子は目についた。
でも、悩みはそれだけじゃないような気がした。父親の厳しさに反発しても優桜は何とかやっていたし、母親が倒れた後も忙しそうにはしていたが、いつもの元気な優桜だった。
今の優桜は、ひどく思い悩んでいるように見えるのだ。外側から見えている事情だけでもだいぶ重いのに、それ以上の悩みというのは何なのだろう。花音には想像がつかなかった。
「せめて、ヘンなことしないように見守ろうにも、あたしは部活しか一緒じゃないんだよなあ」
花音は肩を落とした。助けてあげたいのに、何もできない。
「今度遊びに誘ってみようよ。ヤなこと忘れてぱーっと遊んだら、少しは元気出るかも」
「そうだね。優桜はカラオケ嫌いだから、遊園地とか?」
遊びの話題を広げて、暗い気分を忘れようとする。そうしないと、自分たちまで優桜の抱える闇に飲み込まれてしまうような気がした。
*****
優桜は自分の部屋でぼんやりと過ごすことが多くなっていた。
一人になると、いろいろ考えてしまう。
どうして母はあんなことをしたのだろう。
なぜ、母のような人間が弁護士になれたのだろう。人を殺めて罪を逃れた人間が、司法に関わる仕事に就けるだなんて。
そう思ったら、全てが信じられなくなってしまった。母も、本当のことを知っていて黙っていた父も、日本の法律も、人間も何もかも。
花音たちが心配してくれているのは知っている。けれど、どうしても疑ってしまうのだ。心配するふりをして、裏で何を考えているかわからないと思えて仕方ない。そんな考えしかできない自分は、母と同じくらい最低な人間だと思う。
起きている限りこの考えが頭から離れなかった。だからといって、眠っても逃れられるわけではなかった。悪夢は様々に形を変えて優桜をむしばんだ。
もう、何をするのも嫌だった。
制服姿のまま、自分の部屋で膝を抱えていた時に玄関のチャイムが鳴った。まだ早い時間だから家にいるのは優桜だけだ。父は鍵を持って出ているから、彼ではない。
優桜がとろとろと玄関を開けると、紙袋を持った明水が立っていた。彼は優桜がいたことに驚いたようだった。
「ユウ。いたんですか?」
「……いちゃいけない?」
つっかかるような優桜の言い方に、明水は僅かに眉を寄せた。
「チャイムを鳴らしても誰も出ないから、病院だと思ったんですよ。これ、うちの母さんからです」
明水が渡してくれた紙袋にはタッパーが何個か入っていた。伯母が夕食を作ってくれたのだろう。
お礼も言わずに、ぼんやりと紙袋を見ている優桜の様子のおかしさに、明水は気づいたようだった。
「ユウ?」
「なに?」
優桜はのろのろと顔を上げた。
「疲れてるんですか? なんかおかしいですよ」
「おかしくなんかないよ。放っておいて」
踵を返してドアを閉めようとした優桜の手首を、明水はつかんだ。
「待って、ユウ!」
優桜は構わずドアを閉めてしまった。それでも、明水は手を離さなかったので、手首がドアに挟まれた。かなり大きな音がして悲鳴が上がったが、それでも明水は優桜の手首をつかんだままだった。
「! 明水兄ちゃん」
驚いた優桜は、慌ててドアを開けた。
明水は、苦い顔で手首をさすっていたが、優桜を見ると笑ってみせた。
「どうしたんですか? ユウは今いろいろ抱え込んでいるから、そういう態度取られたら心配します」
ドアに挟まれたことを怒らないこの言葉で、優桜の抱えていた何かが切れた。優桜は明水の腕の中に飛び込んで、子供のように泣きじゃくった。
明水は少し優桜の好きにさせていたのだが、やがて優桜の肩を押した。
「家に入りましょう。ご近所迷惑になるから」
明水は優桜をダイニングの椅子に座らせると、冷蔵庫の中に入っていたペットボトルのお茶をコップに注いでくれた。
「あったかいほうがいいんですけど、急須の位置がわからなくて」
うつむいて泣いている優桜の前にコップを置く。
「何があったんですか?」
全て話してしまえば楽になるように思えた。けれど、憧れている従兄に、母が犯罪者で、父もその事実を知って隠していたとはとても言い出せなかった。
ただうつむいたままの優桜の沈黙を、明水は別の意味に取ったようだった。
「叔父さんとまたケンカしましたか?」
優桜と父親の不仲は、明水も知っている。憶測するには充分だった。
「父さん……隠してた」
「隠していた、って?」
優桜は首を振った。
「ユウ? 話してくれないとわかりませんよ?」
優しく促されても、優桜はどうしても口に出すことが出来なかった。ただ切れ切れに両親への不信を訴えただけだった。
「もう信じられないよ。お母さんも、お父さんも。ここじゃない別の世界に行っちゃいたい……」
要領を得ない話だったのだが、それでも明水は付き合ってくれた。
「最近、ユウが病院にこなくなったって。叔父さんも、うちの両親も心配してましたよ。もちろん、僕も」
優桜は何も言えなかった。
「ユウが叔母さんを嫌いになったのは、看病が面倒だからですか? 家事を自分でやらなきゃいけなくなって、剣道ができなくて不満ですか?」
「そんなこと、ないけど……」
確かに、自分の負担は増えた。けれど、それが不満だったわけじゃない。もっと別のことだ。
「何があったかわからないですけど、今叔母さんに万が一のことがあったら、ユウは後悔しませんか?」
優桜は弾かれたように顔をあげた。
「お母さん、そんなに悪いの?」
「ユウがこなくなってから反応が鈍くなってるという話は出てます」
「そっか……」
またうなだれた優桜の肩に、明水は手を置いた。
「病院、行きましょう。ケンカは叔母さんが治ってからいつでもできます。叔母さんの意見を聞いてからでも間に合いますよ」
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