桜の雨が降る 1部1章6
「優桜。部活、出られそう?」
終礼後、荷物を鞄に収めていた優桜に、花音がおずおずと声をかけた。横には正志の姿もある。
「あー……ごめん。病院、行くから」
優桜は困ったように笑った。
「そっか」
「主将達にすみませんって、お願い」
優桜はそれだけ言うと、花音の横をすり抜けて廊下に出た。そのまま真っ直ぐに下足室に向かう。二人はその後ろ姿をただ見送っていた。
「魚崎、元気ないな」
「そりゃそうでしょ。いきなりお母さんが倒れちゃったんだもの」
優桜が向かったのとは反対側の体育館の方向に歩きながら、花音が吐息をつく。
優桜の母が倒れてから一週間が経過していた。
容態に変化はなく、優桜の父はすっかり気落ちして自身も倒れてしまいそうに見えた。が、仕事をしないわけにいかないので、現在は事務所と病院を往復する日々を続けている。そんな状態で父が家のことに手が回るはずもなく、家事は優桜の背にのしかかっていた。伯母が手伝ってくれているとはいえ、剣道なんてできるはずもない。
優桜は駅前のバス停からバスに乗ると、病院に向かった。
母は眠ったままなので、病室に行ってもできることはあまりない。花瓶の水を変えたり、早く目覚めるように音楽をかけたりする程度だ。それでも、優桜は可能な限り病室に行くようにしていた。
「お母さん」
優桜は病室に入ると、母に声をかけた。
返事がない。そのことが悲しい。
花が入った花瓶とCDデッキが置かれた暖かな部屋なのに、優桜にはひどく冷えて見えた。枕元にはずっと握っていたという古びたお守り袋が下げてある。
「外、寒いよ。今年いちばんの冷え込みって朝のニュースが言ってた。道場ってすっごく寒いんだよね。ちょっとだけ部活しなくてラッキーって思った」
話しかけながら、置いてあるCDデッキに手を伸ばす。再生を押すと、部屋にクラシックの一節が流れた。
この曲は母が優桜の胎教に使っていたものなのだという。母が好きな歌というのが父も優桜もわからなくて、医者に音楽を勧められた時に、部屋に一枚だけあったCDを持ってきた。
母のことを何も知らなかったんだなと、優桜はその時思ったのだ。十六年間一緒に暮らしてきたのに、好きな音楽も知らなかった。交友関係も連絡のためにアドレス帳を繰って、その時はじめて気づいた知り合いが何人もいた。
なんで、わかろうとしなかったんだろう。たった一人のお母さんなのに。
自分がしてもらうばかりで、それを当たり前のように受け止めていたからこうなったんだ。一人になると、その思いが強くなる。
外界から遮断されてしまったかのように静かな病室で、優桜は母の手をさすったり、顔を見たりしながら、後悔に耐えていた。
腕時計に目を落として立ち上がる。病院は七時まで面会時間があるのだが、優桜の門限はこんな状態になっても六時半だ。帰らないと、父に大目玉をくう。
「それじゃお母さん、また明日ね」
母に別れを告げると、優桜は病室を後にした。ナースステーションで挨拶をしてから病院を出る。
冬の夕暮れはあっという間だ。もう道は暗くなりかけている。
昨日伯母が煮物を作ってくれたから、あと一品何かおかずがあれば食べられるだろう。総菜屋に行こうとして、優桜は病院の路地を曲がった。その出会い頭で、優桜は人にぶつかった。
「うわっ」
「あ、ごめんなさい」
優桜は律儀に立ち止まって頭を下げ、通り過ぎようとした。
しかし、相手の方が優桜を呼び止めた。
「アンタ、魚崎優桜だろ? 深川結女の娘の」
名前を呼ばれて、優桜は立ち止まった。
深川、というのは母の旧姓だ。母の知り合いなのだろうか?
「はい、魚崎優桜はあたしですが……」
答えながら優桜は相手を見た。灰色のコートにハンチング帽をかぶった、痩身の男性だった。年は五十代くらいだろうか? やたら無精髭が目立っている。
男性は無遠慮に、優桜をじろじろと眺め回した。
「へえー、似てるといえんこともないが、あの美女の娘とは思えないな。ギョーカイと関係ない奴と結婚するからこんなことになる。それより結女ちゃん、倒れたんだろ? どうなの? 重態?」
へらへら笑いながら、男性は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「自分のしたことが身に返ったんだろうなあ。やっぱり、もって十ヶ月くらいか? なあ?」
「あの……?」
わけがわからず、優桜を見つめ返した。なんでこの人は母を結女ちゃんと呼ぶのだろう。旧姓を知っていたということは、結婚前の知り合いなのだろうか。
「教えてくれよ。ちゃんと取材費は出すから」
「取材?」
何が取材なのだろう。母が倒れたのは、事件でも事故でもないはずだ。
優桜の態度を見て、男性はヒュッと口笛を吹いた。歯をむき出しにして笑う。
「ハハッ、アンタ、本当に何も知らないの? ひゃーっ、あの結女ちゃんがこんな娘を育てるとは」
「何のことですか?!」
相手のふざけているとしか思えない態度に、優桜はだんだん腹が立ってきた。もう相手をしないでさっさと帰ろう。そう思って男性の脇をすり抜けようとしたら、男性はそうさせてくれなかった。腕で押しとどめられる。
「待って待って。悪かった、別に怪しいもんじゃないよ」
男性はコートのポケットから名刺を出すと、優桜の手に握らせた。端がよれた名刺には『月刊芸能サーチ ライター 柴田龍之介』と書かれていた。
雑誌らしき名前は、優桜の聞き覚えがないものだった。
「雑記のライターの方、ですか? なんでうちの母に用があるんですか?」
優桜の棘を含んだ言葉にも、柴田はひるまなかった。口元に依然としてにやにや笑いがはりついたままだ。
「アンタ、何にも知らないんだな。自分の母親のことだろう?」
優桜は言い返せずに黙ってしまった。そんな優桜を満足そうに眺めてから、柴田は口を開いた。
「アンタのお母さん、深川結女ちゃんは二十五年前は売れっ子の人気タレントだったんだよ。もうテレビに雑誌にラジオに引っ張りだこで、日本中顔を見ない日はないってくらいのな」
「えっ?!」
思わず、声を出してしまった。母がテレビに出たことがあるのは優桜も知っていたが、それはほんのちょっと映った程度にしか考えていなかった。
母が、人気のタレントだった……?
「それが何なんですか? でもお母さんはテレビ、嫌いで」
「オレにはそれが信じられないよ」
柴田は大仰にため息をついた。
「あんなに出たがりで自分の身内ダシにしてたような女が、何をトチ狂ったんだか。まあ、自分が妹にしたこと考えたら、テレビから逃げたい気持ちもわからんでもないがねぇ」
歯をむき出して柴田は笑った。煙草の脂で黄ばんだ歯だ。
「自分が、したこと……?」
母の妹が、母の巻き添えで死んだことを言っているのだろうか。
だとしたら、それは不可抗力であるはずだった。悪いのは母を狙っていたストーカーであり、母が妹を手にかけたわけではない。関係がないわけがないのだが、母は倒れてもなお謝っていたではないか。
「なんで、なんでそんなふうに笑われなきゃいけないんですか? お母さん、倒れても絵麻叔母さんに謝ってたのに。別にお母さんのせいで叔母さんが死んだわけじゃないのに」
「ほら、やっぱり何も知らなかった」
響いた声はちゃかすように軽いものだった。けれど、それを聞いて、優桜は肌が粟立ってしまったようにぞっとした。
ここにいちゃいけない。続きを聞いちゃいけない。そう思うのに、体は凍ってしまったように動かない。
「アンタの母親は、妹を殺したんだよ」
何気ない調子で言われた言葉が、深く優桜の胸を貫いた。
「何、それ……」
あの時と同じように世界が冷える。何も考えられなくなる。
大好きな母が、人殺し――?
「芸能人として注目され続けなきゃいけなかったアンタの母親は、話題に詰まると身内を殺して、悲劇のヒロインとしてお茶の間に話題を提供したってわけさ。最初は祖母、次は実の妹」
「違う! 絵麻叔母さんはストーカーに」
首を振る優桜を見ながら、柴田は続けた。
「ストーカーに見せかけて、深川結女が殺ったんだよ。結女が帰ってきた時間に言い合う声を、近所の人が聞いてるんだ。警察も任意で事情を聞いてたんだが、どういうわけか起訴されなかったんだよ。その後嘘みたいにクリーンになってストーカー被害撲滅運動なんかはじめて、芸能界を引退して弁護士になった。撲滅運動やってた時に直訴してきたパンピーの嫁になって、アンタが生まれたってワケ」
話は通っている。父と母が知り合ったのは確かに、ストーカー被害者の会だ。
でも、この人が言っていることが本当だなんて信じられない。得体の知れない相手に、母が実の妹を手にかけたなんて聞かされて、信じる人がいるだろうか。
「信じられないか? だったらお父さんに聞いてご覧」
柴田はもう隠すことなく笑っていた。
「自分の妻のことなんだから何か知ってるだろう。そうだ、取材させてくれよ。妹殺しを妻にするのはどんな気分ですかってな」
「なんで……そんな、こと……」
優桜は口を手で覆った。目を閉じ、聞かされたことを振り払うようにいやいやをする。
その様子に、柴田は笑いを引っ込めた。うって変わった真剣な表情がのぞく。
「深川結女とその事務所がどれだけ汚いことをやったか、オレは告発しようとしたんだよ。けど、当時の勢いじゃ誰もアイツに逆らえなかった。オレの記事は握りつぶされて、どこの出版社からも門前払いをくらうようになった。なんで犯罪者がのうのうと生きてるのに、告発しようとしたオレはこんな目に遭ってるんだ? なあ、結女ちゃんの一人娘の優桜ちゃん」
蒼白な顔で震えている優桜の耳元に顔を近づけ、柴田は囁いた。
「嘘だと思うなら、調べてご覧? すぐにわかることなんだから。
で、本当のことがわかったら、オレに取材をさせてね」
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