桜の雨が降る 1部1章5
学校に呼んで貰ったタクシーで、優桜は総合病院に向かった。
授業中で電源を切っていた携帯電話に、留守番電話が入っていた。従兄の明水のおさえつけるような声で、母が倒れたことと病院の名前が録音されていた。
その携帯を握りしめて、優桜はタクシーの中で震えていた。出がけに会ったはずの、今朝の母を思い出してみるが、ごくごく普通の母しか浮かばなかった。元気だったし、お弁当だってちゃんと作ってくれていた。星占いの結果が思わしくなかったらしく、子供のようにむくれていた。恋愛運だけよくてももう嬉しくないわなんて言ってふざけていたのだ。
タクシーが病院の玄関に滑り込むと、優桜はカバンから財布を出そうとした。手が震えてしまって上手く紙幣が出せない。確かに今は一月だけど、今日はそんなに寒くはないはずだ。焦る自分と、なんでこんなに冷静なんだろうと思うくらいに客観的な自分とがいた。
転がるようにタクシーを降りると、病院の玄関で明水が待っていてくれた。優桜の伯父は自宅で学習塾をやっていて、明水はそこで講師をしている。この緊急事態に呼び出されたのだろう。
「ユウ!」
「お母さんは?」
泣き笑いのような顔で聞く優桜を、明水は病院の中に入れた。
「お母さん……大丈夫よね?」
「今、処置してます」
明水は優桜の腕を支えるようにして病院の外来を抜け、エレベーターホールまで優桜を連れて行った。
夢の中の出来事のように、優桜には実感がなかった。ついさっきまで普通に授業を受け、友達と笑っていたのだ。それなのに。
「なんで……?」
優桜の嘆きを、明水は別の意味に取ったようだった。
「忙しかったせいで体調が不安定だったんだそうです。事務所で胸が痛いと言い出して、自宅に帰りかけた階段で倒れました。すぐに救急車で運ばれたから、まだ希望はあるって」
エレベーターが来る。明水がボタンを押して、ドアが閉じた時に優桜の目から透明な雫があふれた。
泣いたって何もならない。子供みたいだ。
そう思ったのに、なぜか涙が出た。嗚咽だけはこらえたが、こぼれた涙は優桜の制服の襟にいくつもしみをつけた。
「あたし、全然知らなくて。お母さん、具合悪かったの知らなくて。仕事忙しいって言ってたのに、食器も洗わなくて……」
確かに母は忙しいと言っていたのだ。それなのに優桜は自分のことばかりで、家の手伝いもろくにしなかった。
「ユウ」
顔を上げると、明水がハンカチを差し出していた。受け取ると、優桜は強引に涙を拭った。もう泣かないようにと、きつく唇を噛む。そんな従妹の姿を明水は気遣わしげに見守っていた。
エレベーターがついた先の廊下に、伯父と伯母がいた。二人の後ろに処置室のドアがあって、上には赤いランプがついている。安っぽいテレビドラマみたいだと思ったら、無性に悲しくなった。
「優ちゃん、大丈夫?」
小柄な伯母が転がるように走ってきて、優桜の肩を抱く。
「お母さんは……?」
心配させたくなかったのに、か細い声しかでなかった。伯母の優桜を抱く手の力が強くなる。
「まだ処置してるの。隆敏さんがついてる。大丈夫だからね」
隆敏というのは、優桜の父の名だ。
すすめられて、優桜は廊下に据えられたベンチに座った。視界がなぜかぼやけるのを、優桜は頭の中で寝不足のせいにしていた。
途中で仕事の処理があるからと伯父が一度帰宅し、伯母が優桜に長くなるようだから明水と昼食を食べてくるように勧めてくれたが、優桜は断った。明水と伯母は交代で昼食を取りに行き、明水は優桜に飲み物とサンドイッチを買ってきてくれた。
「ユウ。食べないと保ちませんよ」
言われて、優桜はサンドイッチを口にしたのだがまるで食欲がなかった。飲み物で強引に流し込むようにして片付ける。
どのくらい時間が経ったのだろう。伯父が戻ってきているくらいだから、相当経ったはずだ。夕方を回った頃にようやく、赤いランプが消えた。中から看護婦が出てくる。
「どうですか」
おそるおそる聞いた伯父の声に、看護婦はきびきびした態度で応じた。
「今のところ命に別状ない状態です。ただ、意識が戻りません」
その言葉を冷静に判断できるほど、優桜に思考能力は残っていなかった。
「どういうことですか……?」
看護婦の声は残酷までに冷静だった。
「今すぐにどうこうということはないですが、このままずっとこの状態が続くかもしれません」
「植物状態、ということですか」
伯父の声が力なく廊下に落ちた。
とりあえず中に入ろうと促され、優桜はふらふらと立ち上がった。その背中に、看護婦が声をかける。
「エマちゃんって、お嬢さんの名前ですか?」
「え?」
脈絡のない質問をされて、優桜は答えることができずにただ看護婦を見返した。
優桜の力のない瞳に見つめられて、看護婦が言葉を足す。
「お母様、ずっと呼んでらしたの。エマ、ごめんね……って。だから、貴方のことかと思ったんだけど」
「絵麻は、叔母の名前です」
「あら」
だったら早く呼んであげてねと言うと、看護婦は優桜の手に自分が持っていたものを握らせた。
「これ、お母様が握ってたものなの。お父様に渡しそびれてしまったから、貴方にお返しするわね」
優桜に手渡されたのは、どうやら手製らしいお守り袋だった。厚手の、色あせた桃色のキルトで作られたそれはかなり古いもののようだった。
中をあけてみると、そこには不透明な青い石のついたペンダントが入っていた。キルトと同じく、ペンダントの鎖は古びてところどころ錆びている。
何も言えずにそのお守りを見ていた優桜の肩を、明水の腕が包み込んだ。そのまま明水は優桜を連れて処置室に入った。
いくつか並んだベッドのひとつに、母が寝かされていた。
ちょっと見ただけでは、普通に眠っているのと変わりないように思えた。けれど、体中にチューブや配線がつながっているのは決して普通の眠りではない。
さっきから、まるで実感がなかった。ただ、倒れながら妹の名を呼んでいたという母のことは、なぜか哀れに思った。
母のベッドの横の丸椅子に、父がうなだれて座っていた。仕事で着ているスーツのままで、ひどく憔悴した様子だった。
「お父さん」
「ああ……優桜か」
自分を見上げた父の顔を見て、父も倒れてしまうんじゃないかと優桜には思えた。それほど父の顔は青ざめていたのだった。
「優桜、泣いてないな。やっぱり母さんに似て強い子だな」
父は自分で言った言葉に肩を震わせた。
「お父さんはダメだ……母さんがいなくなるって思ったら、もう……」
言って、泣き出してしまった父のことを、慌てて伯父がなだめる。
「おいおい。お前がしっかりしなくてどうするんだ。優ちゃんが不安になるだろう?」
「兄貴……」
震えて泣いている父のことを、優桜は何の感情もうつさない目で見つめていた。
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