桜の雨が降る 1部1章3

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「ただいまー……」
「優桜」
 玄関を入ると、ご丁寧に父が仁王立ちで待っていた。
「ただいま」
「今何時だ?」
 父親の声音は厳しい。
「だから、ただいまって」
 そう言って逃れようとした優桜だったが、父は許してくれなかった。
「だから、今何時だと思ってるんだ?」
 優桜の父、魚崎隆敏(うおざきたかとし)は有無を言わせない口調で言った。
 時計の針は七時半に差し掛かろうとしていた。優桜の門限は六時半なのだから、一時間近く遅れたことになる。
「お父さんはいつも、優桜に何時に帰ってくるように言ってる?」
「ちゃんとメールしたよ?」
 反論した優桜に、覆い被せるように隆敏は告げる。
「メールしたからって破っていいわけないだろ!」
 上から押さえつけるような物言いに、優桜の反発心が煽られる。
「だって、それでもまだ七時半にもなってないのよ?!」
「うちの門限は六時半だ」
「信じらんない!」
 優桜は声を荒げた。
「今時中学生の門限だってそんなに早くないわよ。あたし、もう高校生だよ?!」
「高校生だから危ないんだ!」
 玄関先で、父と娘の言い合いが繰り返される。
「美桜(みおう)おばさんのことがあったじゃないか! 若い娘の一人歩きは危ないんだ」
「そんなのもう十五年以上前の話でしょ!」
 美桜という名前に、優桜は顔を歪めた。
「あたしはおばさんたちじゃないもの! ストーカーになんか殺されない!」
「優桜!」
 優桜は乱暴に父を押しのけると、リビングに入っていった。
 食卓には三人分の皿が出ていたが、まだ食べていないようだった。母親の結女(ゆめ)が、困ったように顔を曇らせて立っていた。
「お帰りなさい、優ちゃん。ご飯どうする?」
 心配そうな母の声を、優桜は突っぱねた。
「今はいらない」
 もう、父と顔を合わせたくない。
 優桜は足早に階段を上がると、自分の部屋に飛び込んだ。ばたんと音を立ててドアを閉め、ベッドにつっぷす。それでも、階下から父と母の声が聞こえてきた。
「お父さん。優桜だって年頃なんだから」
 母が父をなだめているようだった。しかし、父の勢いは止まらない。
「年頃だから困ってる。何かあったらどうする気なんだ?!」
「優桜だってわかってるわよ。普段はちゃんと早く帰ってきてる」
「けれど、美桜は、昼間に……」
 父の声が震えて細められる。
 優桜の家には少し複雑な事情がある。
 美桜、というのは父の年の離れた妹の名前で、生きていれば優桜の叔母にあたる人だった。彼女は二十代という若さで世を去った。殺人事件に巻き込まれたのだ。
 美桜はアルバイトをするかたわら劇団に所属し、女優を夢みていた。その舞台を見て、彼女の熱烈なファンになった男性がいた。公演に毎回駆けつけ、ファンレターやプレゼントを贈る。美桜だってそうされて悪い気がするわけがないから、返事を書いた。ここまでならごく普通の関係だった。
 ところが、男性はもっと美桜に近づきたいと思うようになった。公演が終わった美桜の後を追いかけて自宅を突き止め、電話をする。アルバイト先にまで押しかけ、帰ろうとしない。
 美桜は当然嫌がる。男性は追いかける。彼は美桜の全てを独占したいと思い詰め、どんどん行動が過激になっていった。そうなればますます美桜は恐怖し逃げようとする。それは悪循環だった。警察にも何度も相談したが、その対応は満足のいくものではなかった。そして、考えられる限り最悪の結末が訪れた。
 バイトからの帰り道、男性に会わないようにと時間をずらして帰ろうとした美桜の前に現れた男性は、手に包丁を持っていた。行き過ぎた好意は暴力になり、結果、美桜は亡くなった。
 魚崎家が受けた被害はそれだけではなかった。美桜の父親――優桜の祖父はこの事件がきっかけで会社にいられなくなり、職を失った。連日押しかけるマスコミのせいで、今までの住居に居続けることすらできなくなった。こちらは被害者なのに、追われるようにして長年住み慣れた土地を離れ、仕事に就くことすら厳しかったことから自営業をはじめた。これだけの被害を受けたにも関わらず一切の補償がなかったばかりか、加害者は死刑にすらならなかった。下った判決は無期懲役刑だったのだ。
 このような形で妹を失ったことが優桜の父に与えた影響ははかりしれなかった。相手を憎み、甘い対応しかしてくれなかった警察を憎み、こちらの苦しみを何も知らずに騒ぎ立てる世間を憎み、そして何より、妹を守ってやれなかった自分を憎んだ。結果、優桜の父は何もかもを完璧に自分の庇護下におかないと気のすまない人になってしまったのである。優桜の門限がやたら厳しいのはこのせいだ。
 厳しいのは門限だけではなく、出かける場所や服装、交友関係など、優桜が父親の目の届かない場所に行くことに対しては厳しさに容赦がない。親の言うことが何でも正しいと思っていた子供の頃はそれが当たり前だと思っていたのだが、思春期に入るにつれ、それは異常なことだというのが優桜にもわかってきた。同時に、思春期の娘を持つ親なら当たり前の成り行きで、優桜が思春期に入るにつれ父の心配は増し、束縛はさらに厳しくなった。こうなるともう泥沼で、優桜と父は今や冷戦状態だった。
 父の心配がわからないほど優桜は冷たい娘ではない。しかし、思春期には当たり前の心の動きで、どうしても反発してしまうのだ。他の子は楽しくいろんなことをしているのに、自分はできないなんて納得がいかない。
 今の優桜は、父がやることなすことが嫌で仕方なかった。魚崎家は自営業なので、夕方には必ず父が家にいるのがまた癪にさわる。忙しいサラリーマンならまだごまかせるのに。
 父がつけた自分の名前も嫌だった。しかも父は最初、自分に美桜とつけようとしたのだ。さすがに親戚中から反対されて、結局、優しい桜と書いて「優桜」とすることで妥協した。優桜の名前に、十二月生まれなのに『桜』という文字が入っているのはこういう理由である。いくら大切な妹の名とはいえ、凄惨な事件に巻き込まれた被害者の名前をつけられたら子供がどんな気持ちがするか、父は考えてくれなかったらしい。
「優ちゃん」
 優桜がベッドでむしゃくしゃしていると、ドアがノックされて母が入ってきた。
「何?」
「ご飯、食べるでしょ?」
 ベッドから体を起こすと、母が心配そうな顔をしていた。
「お父さんと顔合わせたくない」
 母は声を低めると、言った。
「お父さん、自分の部屋に入ったから。お腹空いてるんでしょ?」
 母に心配をさせたくないし、お腹も空いていた。部活でめいっぱい動いた後なのだから、ハンバーガーくらいで足りているわけがない。
 優桜はベッドから降りた。母と一緒に階段を降り、ダイニングに行く。
「お友達とおしゃべりしたい時は、今度からはメールだけじゃなくて、電話もしてね。お父さん、心配するから」
 夕飯を温め直しながら、母はそれだけ言った。
「お父さんは心配のしすぎだよ。そう思うでしょ?」
 噛みつくように反論した優桜に、母は困ったように笑った。
「例の事件があったからね」
「お母さんだっていろいろあったのに、そうじゃないじゃない」
 母が暗い顔をしてうつむいたので、優桜は慌てて謝った。
 なんの因縁なのか、優桜の母の妹もストーカー事件に巻き込まれているのだ。ストーカーに自宅で首を絞められ、それが原因で十ヶ月後に病院で亡くなったそうだ。犯人は逃走し、ついに捕まらなかった。
 母はひどくつらいんだと優桜は思う。母の妹を殺した相手がストーカーをしていたのは本来母の方であり、母の妹は側杖をくったのだから。
 母は温まったフライの盛り合わせを優桜の前に置いた。
「あれ? これってお総菜屋さんの?」
 優桜の問いかけに、母は申し訳なさそうに頷いた。
「ごめんね。今日は忙しくて作る時間がなかったんだ」
 優桜の両親は法律事務所をやっている。父が司法書士で、母が弁護士だ。どちらかというと母の方が忙しいように優桜は思う。
「明日はちゃんと、優ちゃんの好きなもの作るから」
「これも美味しいから別に構わないけど」
 言って、優桜は白身魚のフライに箸を伸ばした。
「やだ。出来合いのおかずばっかりじゃお母さん、優ちゃんのお母さんの意味がないじゃない」
 母はそう言って苦笑いした。
 娘の自分が思うのも変な話だが、優桜の母はストーカーされたというのが納得の美人である。今年四十三歳になるのだが、まだ三十代に見えるくらいだ。ついでに言えば日本の最高峰と呼ばれる大学を出ている、優桜の自慢の母親であり、優桜は母のようになれたらいいなと憧れている。
 美人という件に関して付け足せば、テレビに出たことまであったらしい。最も、子供の頃に録画してあるものを見せてくれとせがんだら「よく映ってないからダメ」と返されてしまったので、夕方のニュースバラエティにちょっと映った程度だったんだろうと優桜は勝手に思っている。
 父と同じ痛みをもつ人であり、父と知り合ったきっかけも被害者の会で一緒になったことなのだそうだ。そのわりに、母は父ほど異常な心配性ではない。確かに普通の親よりは過保護かなと思うが、優桜を自分の庇護下に束縛せず、ある程度の自由を許してくれている。
 父には反発しかできない優桜なのだが、母のことは好きだった。優しくてあたたかい。仕事はかなり忙しいはずなのだが、母は出来る限り優桜のことを優先して可愛がってくれた。
「お父さんは、優ちゃんのこと本当に心配しているのよ。それだけなの」
 その心配が余計だとは流石に言えず、優桜は夕飯を頬張った。
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