桜の雨が降る 1部1章2

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「明日は卓球部と交代だから、グラウンドで基礎練習。一時に水飲み場集合。遅れないように」
 一日の練習を終え、主将が明日の伝達をする。
「一同礼!」
「ありがとうございました!」
 三学期はじめの練習で、県大会を控えているということもあり、練習内容はなかなか厳しかった。しかし、充実していた。
 優桜は剣道をしている時の自分がいちばん好きだと思う。竹刀を青眼に構えて向き合うあの一瞬にかかる緊張感が、たまらなく好きなのだ。目の前の相手からどうやって一本を奪うかに思いをめぐらせ、体を動かす。
 後片付けを終えた優桜は花音と一緒に剣道場を出ると、更衣室に着替えに行った。更衣室は同じように部活を終えた女子生徒たちでごったがえしている。
「花音、優桜!」
 入ってきた二人を見て、ジャージから着替えている途中だった小柄な少女が声をかけた。
「有希」
「バド部ももうあがり?」
 徳井有希はバドミントン部に所属する、花音のクラスメイトだ。優桜とも選択科目が同じで、よくおしゃべりをする間柄だった。
「ねえ、お腹空かない? ハンバーガー食べていこうよ? 翠と千尋も一緒だよ」
 有希の言葉に、花音が即座に同意する。
「いいねいいね。優桜も行くでしょ?」
 優桜は腕時計に目を落とした。時刻は五時を回ったところだ。
「優桜、だいじょぶ?」
 花音に聞かれ、優桜は一瞬眉を曇らせた。
 魚崎家の門限は六時半である。今から出かければぎりぎりになってしまうだろう。が、友達と学校外でおしゃべりできるというのは楽しいことだし、優桜は先月誕生日を迎えて十六歳になった。もう子供じゃない。
「うん、大丈夫」
「よし、決まり! さっさと着替えちゃお」
 花音の言葉に、優桜は頷いた。
 セーラーの制服に着替え、総勢五人で賑やかにおしゃべりしながら駅までの大通りを歩く。ハンバーガーショップが見えてきた頃、優桜は夕方の人混みの中に知っている顔を見つけた。
「明水(あきみ)兄ちゃん!」
「ユウ?」
 名前を呼ばれた茶髪の青年が、びっくりしたように振り向く。髪の色こそ明るい茶色なのだが、眼鏡に隠れた面差しは穏やかで、真面目そうな印象だった。雰囲気にどこか優桜と通じるものがある。
「やっぱり、明水兄ちゃんだ。どうしたの?」
 新年の挨拶で会ったばかりなのにもう会えた。はしゃぎすぎないように気をつけながら、優桜は尋ねた。
「友達と飲みに行く約束をしてるんです。ユウは学校の帰りですか? あんまり遅くなると、叔父さんに怒られますよ」
「大丈夫。ちゃんと早く帰るから」
 本当はもっといろいろ話したいのだが、友人たちが足を止めてこちらを待っている。長く待たせては冷えてしまうだろう。
 明水もそれを察したようで、会話を切り上げた。
「暗くなるのも早いから、気をつけて下さいね」
「うん。バイバーイ」
 名残惜しかったのだが、優桜は手を振ると明水に背を向け、友人達のところに戻った。ハンバーガーショップに入って五人分の席を確保し、思い思いに注文する。優桜は照り焼きバーガーとサラダのセットを頼んだ。
「優桜、さっきの誰?」
「イトコのお兄ちゃんだよ。近所に住んでるの」
 有希に聞かれ、優桜はそう説明した。
 魚崎明水は優桜の父の兄の息子で、優桜とは従兄弟にあたる。年は二十五歳と少し離れているが、何かにつけて構ってくれる、一人っ子の優桜にとっては実の兄にも近い存在なのだ。
「ああ、だから雰囲気似てたんだ!」
 背筋の伸びた実直そうな印象は、優桜と明水に共通していた。
「イトコのお兄ちゃんってことは、もしかして優桜の憧れの君?」
 ポテトを口に運んでいた花音が、思い出したように言う。
「ちょっ、花音!」
 優桜は慌てて隣に座る花音の口をふさごうとしたのだが、それより先に有希はその話題に食いついてきた。
「え、なになに花音。今の話」
 花音はにまりと笑うと、声のボリュームをわざとらしくあげた。
「あのねー、優桜はねー」
「花音ー!」
 優桜のこの慌てた態度こそが『あたしさっきの明水兄ちゃんが好きなんです』とはっきり物語っていた。
 優桜はずっと前から、従兄の明水に憧れているのだ。優しくて真面目で、クラスの男子みたいなお子様じゃない。いつか隣を歩けるようになれたらいいなと、会う度にそんなことばかり思っている。
「浮いた話がないと思ってたら、優桜の本命は外部だったのか」
 シェイクを飲みながら、有希が器用に唇をつり上げる。
「写真で見たことあったけど、結構背が高い人なんだね。大人の男の人って感じー」
「花音の本命は江坂だから、なおさらそう見えるよねー」
 仕返しとばかりに優桜が花音のクラスメイトの名前を出すと、花音は唇を尖らせた。
「いいなー、男っ気のある人たちは」
 有希はシェイクを置くと、膝に立てかけていたバドミントンのラケットをいじった。
「有希の本命はー?」
「それが周囲にいい男がいなくって。ちょっと誰か紹介してよ」
 有希が大げさに肩を落としてみせる。
「春田は?」
「パス。あいつといると一緒にいじられそう」
「別に無理して彼氏作らなくてもいいんじゃない? まだ高校生なんだし」
 そう提案した優桜の意見を、その場の全員が一蹴した。
「えー? 命短し恋せよ乙女だよ?」
「そうだよ。今の法律では十六歳で結婚できるんだから」
 その言葉に、優桜は瞳を瞬かせた。
「そっか。あたしもう結婚できちゃうんだ」
「優桜、十六歳になったばっかだもんね」
 花音の言葉に、有希とバドミントン部の友人たちが意外そうな顔をする。
「? どうしたの?」
 有希は今はじめて気づいたとばかりに、不思議そうに尋ねた。
「優桜って、春生まれじゃなかったの?」
「あたし、誕生日は冬だよ? どうして?」
 優桜は十二月生まれである。一体どこからそんな話になったのだろう。
 問いかけられて、有希は何事もないように自分の意見を口にした。
「名前が『優桜』で桜って入るから、てっきり春生まれだと」
 名前のことを言われて、優桜はふっと表情を硬くした。
「名前は桜なんだけどね、冬生まれなんだ」
 言葉少なに返す。
 優桜は自分の名前が好きではない。もっと言えば、桜の花自体が好きではない。花に罪はないはずなのだが、嫌なものは嫌なのだ。桜前線のニュースを聞くたび「なんでこの国は花ごときでこんなに騒ぐんだろう」と思う。
 有希は特に気にした風もなく、言葉を続けた。
「そっかー。『ゆうさ』って響きがふんわりしてるし、花音とか春田とか名前が春っぽい人と一緒だから、それで春だと思い込んじゃったんだね」
「学年首席の有希さんには珍しい思い込みですね」
 照れ笑いする有希の肩を、花音がぐりぐりと小突く。
「花音は確か春だよね? 誕生日」
「春って言っても五月だけどね。今の五月って結構暑いよね?」
「うん。地球温暖化だよね」
 そうして話題はとりとめのないものへと変わっていき、窓の外がどんどん暗くなる。
 結局、優桜がハンバーガーショップを出たのは七時過ぎだった。
 携帯を確認すると、着信とメールが山ほど入っていた。うんざりと眉を寄せた優桜だったが、慌てて家路を急いだ。
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