桜の雨が降る 1部1章1

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  1.母の裏切り  

「……であるからして、我が清風高校生が三学期に成すべき事は」
 三学期の始業式が終わったばかりの、クラスホームルーム。
 先ほどから、学年主任である担任の古典教師の退屈な説教が続いている。見上げてみれば時計の長針は説教が始まった時から見事に九十度角度を変えていた。
 廊下からはホームルームが終わった他のクラスの生徒のざわめきが聞こえてくる。
(あーもう、早く終わってくれないかな)
 クラスの大半の願いにもれず、魚崎優桜(うおざぎゆうさ)も先ほどから熱心に担任の禿頭と時計の針とを交互に眺めていた。高い位置で結われた真っ直ぐな黒髪が、彼女の気持ちに合わせるようにそわそわと揺れている。
「一月行って二月逃げて三月去ってという言葉がある。三学期は短いのだ。正月気分に浮かれている間に学年末試験がやってくる。この試験で一年の成果が実証されるのであり、お前らの真価が問われる時なのである」
 担任の長演説がクライマックスに達しようとしたその瞬間、絶妙なタイミングでチャイムがなった。長すぎますよ、と相づちを打つかのように。
 どっと、クラスに笑いが起きる。担任すらいかつい顔に笑みを浮かべた。
「では、今日はここで終わることにする」
「起立!」
 担任の気が変わらないうちにと、優桜は大急ぎで号令をかけた。
「礼!」
 わあっとざわめきが広がる。優桜は大急ぎで教卓に駆けつけると、担任に一礼して学級日誌を差し出した。新学期早々、日直にあたっていたのである。
「先生、判子お願いします」
「ご苦労さん、魚崎」
 担任は胸ポケットから判を出すと、はあっと息を吹きかけた。
「そういえば魚崎、お前市の大会三位だってな。おめでとう」
 ぱっと、優桜の頬が染まる。
「え、魚崎さんなんかあったの?」
 教卓前にいた女生徒が耳ざとく聞きつけ、そう声をかけてくる。
「ああ、魚崎は剣道の冬の市大会で三位に入ったんだ」
 担任の誇るような調子の説明に、優桜はますます顔が赤くなるのを感じた。
「すごーい!」
「おめでとう、魚崎さん」
 少女たちが口々に賞賛してくれる。それは嬉しくもあり、くすぐったい。
「ありがとう」
 優桜は笑顔を浮かべると、クラスメイトに軽く会釈した。
「なんで始業式で表彰してくれなかったんだろ」
 確かに三位入賞というのは聞こえがいいのだが、県大会の前哨戦だったのだ。県大会でいい成績を残せば、また違ってくるのだろう。
「まだ一年なのに凄いね。うちの学校、剣道部全然強くないのに」
 その時、後ろのドアから首をつっこんでいた女生徒が優桜を呼んだ。
「優桜ー! 部活行くよー!」
 後ろの戸口で、三つ編みにされた茶色がかった髪が揺れている。
「学年職員室に日誌置いてくるからちょっと待って!」
 優桜はそう返すと、担任とクラスメイトにそれじゃと一礼して踵を返した。
「魚崎さんって、丁寧よね」
 教卓前で談笑していた女生徒の一人が、そう評す。
「背筋がピンと伸びてる感じっていうのかな。髪も黒くて綺麗だし、剣道少女っていうのイメージぴったりだよね」
 女生徒の視線が教室後ろから出て行く優桜を追いかける。彼女の後ろ姿は無駄なくすっきりとしていて、セーラー服の背中で黒髪が揺れていた。
 魚崎優桜は清風高校の剣道部に所属している。
 清風高校自体が県立の小さな高校であり、剣道という種目も手伝って部の規模は大きくない。なんせ、剣道場を卓球部と交代制で使っているくらいである。
 優桜の学年の剣道部員は三人だけで、うち一人が先ほど優桜を呼びに来た少女、船場花音(せんばかのん)である。優桜とクラスは教室ふたつばかり離れているのだが、部活で毎日顔を合わせるので、優桜にとっては学校でいちばんの仲良しといえる存在だ。
「急ごう! 先輩達きちゃうよ。優桜ってばなんで新学期から日直にあたるかなあ」
 ぼやかれて、優桜は苦笑いした。
「といわれても、あたしにはどうしようもなくない?」
「豆電球の演説も長かったしね」
 優桜の担任の古典教師は、その禿頭から生徒間で「豆電球」という不名誉なあだ名を頂戴している。
「急ご急ご」
 清風高校の体育館は二階建てで、二階が体育館、一階が男女更衣室、柔道場、剣道場になっている。二人が胴着に着替えて剣道場に入ると、既に何人かが集まってきていた。優桜たちと同じ一年の男子生徒が、モップで床を掃除している。
「魚崎、船場、遅いぞ」
 主将が注意する。二人はすみませんと頭を下げて、掃除にかかった。
「オレたち抜いて大会三位になったからって甘やかさないからな」
 そういいながら、主将は笑っていた。規律のしっかりした部ではあるが、頭ごなしに厳しいわけではない。部活中は私語も許されないのだが、部活が終われば先輩後輩の仲はよく、みんなで遊びに行くこともある。この雰囲気が優桜は好きだった。
「お前ら遅いぞ」
 先に掃除をしていた男子生徒がぼやく。
「豆電球の長説教」
 男子生徒の隣に並びながら、花音が歌うようにぼやいた。その言い方がおかしいので、優桜はついつい笑ってしまう。
「船場は豆電球関係ねーだろ。ったく、女は連れ立たないとなんもできないんだから」
 皮肉を浴びせる男子生徒を横目で見やると、花音はさらりと言葉をつないだ。
「その女に連戦連敗してるのは誰かしらね、万年最下位の春田クン」
「船場!」
 男子生徒が顔を真っ赤にして怒鳴り、何事かと先輩達が振り返る。その中で花音はけらけらと笑っていた。
 男子生徒――春田正志(はるたしょうじ)はふてくされたようにそっぽを向いた。
 正志は清風高校一年生男子で唯一の剣道部員で、今時の軽い性格である花音よりはるかに熱心なのだが、実力が追いついていない可哀想な存在であった。ひとりだけ男子ということで先輩からも何かとしごかれ遊ばれるので、部内では何かと遊ばれる立ち位置で定着してしまっている。
「早く掃除して練習しよ? お正月休みで動かなかったぶん、早く取り戻さなきゃ」
 今日は始業式ということで、学校は午前中だけだ。昼食休憩をはさんでも、たっぷり半日は剣道ができることだろう。
 早く体を動かしたい。思い切り竹刀を振って、打ち込みがしたい。
「あ、優桜わくわくしてる」
「今時めずらしい剣道少女だよなー、魚崎って」
 モップを押して走り出した優桜を見て、花音と正志は顔を見合わせた。
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