Love&Place------1部4章3

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「……なんで? なんで?」
「絵麻?」
「嘘をつくなら優しくしないで!」
 トゥレラに襲われても出なかった悲鳴が、喉の奥からあふれた。
「悲しくなるから。諦められなくなってしまうから……」
 とっくに諦めていたはずだったのに、それでもどこかに自分を必要としてくれる場所があるかもしれないと期待をしてしまう。自分を自分として扱ってくれる誰かがいることを願ってしまうから。
「わたしのこと好きだって言ってくれる人がいるかもって思っちゃうから。そんなこと、ないのに。絶対ないのに……」
「絵麻」
 泣き出すのを必死に堪えている絵麻の名を呼んで、翔が絵麻を腕の中に引き寄せた。
「確かに僕は嘘をついたけど、全部が嘘じゃなかったんだよ。掃除してくれて嬉しかったのも、ご飯がとても美味しかったのも本当だよ。
 僕が絵麻のことを良い子だなって好きになったのも、本当だよ」
 翔の声は真っ直ぐだった。
 言葉になりきらない気持ちを伝えるように、翔は絵麻を抱きしめる。
「僕は、手のことを心配してもらえて嬉しかったんだ。僕が最初に間違えた。それを隠したかったから絵麻には伝えなかった……悪いのは僕だから。リリィたちは違うから。ごめんね」
 あたたかい。こんな風にしてもらえたことは、祖母が亡くなってからはなかったことだ。祖母を失ってから、ここにくるまで。
 冷たく凍りついていた気持ちが、溶けはじめたように感じた。
 絵麻は翔を見上げた。翔も絵麻を見ていた。
 溢れ出した、さっきとは違う涙で翔の姿がぼやける。
「帰ろう? ここは危ないし、みんな心配してる。僕とリリィだけでは心許ないけど、戻れば信也たちと合流できるから」
 絵麻は頷いて、手の甲で涙を拭った。
「……帰る」
「僕はリリィと合流して、トゥレラが追ってこられないようにするから。絵麻はこのまま道なりに行って、先に信也たちのところに戻って」
 不安だったが、ここで我儘を言うわけにはいかない。絵麻はぎゅっと手を握って歩き始めた。その後ろから、空を割くような甲高い音がした。即座に翔が反応する。
「え?」
 翔はさっき逃げてきた方角を確かめていた。視線を追いかけると、黒い霧に追われるようにしてリリィが駆けてきていた。ショールがどこかに飛び、上着が一ヶ所切れてしまっている。走り方がどこかおかしい。右足を痛めているようだった。
 闇がそのリリィの首を打ち据え、リリィは前のめりに倒れた。薄暗い中でも輝く金色の髪が広がって散らばっている。倒れ伏した顔の側に、ショールにつけていた銀色のクリップが転がっていた。クリップだとばかり思っていたが、ホイッスルを身につけられるように改良していたようだった。
「リリィ!」
 翔はリリィを助け起こそうとしたが、それより早く、風を伴った黒い霧が絵麻と翔の周囲に渦巻いた。霧はみるみるうちに髪の長い女性の形を取る。
 霧のお化け――トゥレラは空をすべって絵麻の前に来た。トゥレラに顔はないが、絵麻は耳があるであろうあたりまで赤く裂けたトゥレラの口をみた。
「青イ石……」
 絵麻の体に長い髪が絡みつく。内蔵を引き絞られるような感触に、絵麻は悲鳴を上げた。中身を吸い出される。身体の中身を抜き取られてしまったかと思ったのだが、絵麻は無事だった。むしろ、体の芯にあった熱のようなだるさがなぜか消えていた。
「え……?」
 唐突にトゥレラが笑い出した。歓喜の哄笑。
 女性をかたどっていたが、黒い霧でしかなかったトゥレラの体がみるみるうちに実体になった。ぼやけていた体は艶やかな黒い皮膚に覆われ、髪はよりしなやかになる。絵麻は再び締めあげられていた。
「絵麻!!」
 目の前で光が炸裂して、苦痛は始まったときと同じく唐突に終わった。その場に崩れ落ちた絵麻を、翔が庇うようにして自分のほうに引き寄せた。
「信也たちのところに逃げろ! リリィを助けてすぐに行くから」
 翔はそう言って絵麻をトゥレラたちとは反対の方向へ押し出し、自分がトゥレラと対峙した。手の中にいつかも見た力包石を握りしめている。トゥレラの髪が短くなっているから、さっき絵麻を解放した光は翔が放った物だったのだろう。
 翔は、自分の能力は弱いと言った。それでも、この前は絵麻の足でもその場から逃げ出すことはできた。
 絵麻は恐怖や不安をこらえてその場から駆け出そうとした。
 翔も、一時的に足止めできていると考えていたのだろう。彼はリリィを助け起こした。リリィは意識こそ失っているが、無事なようだった。
 絵麻は逃げ出そうとしたのだが、その手足に闇が絡みついてきてあっという間に引き倒された。地面に叩きつけられてそのまま持ち上げられる。すぐ前にトゥレラの滑らかな闇の肌に覆われた顔があった。
「青、アオ、青イ石ィ……」
 トゥレラの何もなかった顔の額の部分に、血星石が出現していた。
 絵麻はさっき自分の中から唐突になくなった、熱のようなだるさを思い出した。自分が血星石になろうとしていたことを思い出した。トゥレラたちが力包石に引き寄せられる習性があることも。
 絵麻の中にあった血星石を取り込んで、このトゥレラは強くなっているのだ。
 トゥレラの頭部が爆発するように膨れあがった。闇が広がって何も見えなくなる。翔が吹き飛ばされて倒れ、それでも絵麻の名前を叫んだのが遠く聞こえた。
「翔……リリィ……」
 トゥレラの蛇のような目が嗜虐に細められた。
 しゅる、と髪の毛が鳴る音がした。腕に、脚に、胴にしなやかに絡みつく。頭にも首にも。
「いやっ! いやあっ!!」
 絵麻は首に絡みついた髪を引きはがそうとした。苦しくて気持ち悪い。逃れたい。逃れたい。何から? 逃れてどこへ行くの?
(怖いよ……助けて……)
 祖母がいなくなって、絵麻を助けてくれる人はもう誰もいなくなったのに。一体誰に助けを求めるというの?
 ついさっきまで、行く場所のない自分はどうなってもいいと思っていたんじゃなかったの?
 違う。違うんだと、絵麻は首を振る。
 死ぬのが怖くなって命乞いをしているわけではない。
 翔たちと一緒にいたいから。翔たちのところへ帰りたいから。
 完全に信頼したわけじゃない。また裏切られるのかも知れない。打ちのめされるのかも知れない。
 それでもいい。もう一度、翔たちと一緒にいたい。あのあたたかい場所へ帰りたい。
 絵麻はがむしゃらに手足を振り回した。絵麻の力ではトゥレラの繰り出す闇をふりほどけるわけがない。むしろ自分の体を叩いてしまう。それでも絵麻は抵抗するのをやめなかった。振り回した手が、ペンダントを入れたポケットに当たる。
 真っ黒に塗りつぶされた闇の霧の中に、青い輝きがこぼれた。
「――!」
 目がくらむような強い光に、絵麻は暴れるのをやめて目を閉じた。切れ込みのような目しかないにも関わらず、トゥレラはなぜか怯んだように見えた。
 触手のような黒い髪がほどけて、絵麻は地面に投げ出された。
 トゥレラは両手で頭を――血星石の部分を押さえてもがき苦しんでいた。指の隙間から熱と光が漏れている。絵麻の身体の内側で、同じ熱が燃えていた。そしてもう一ヶ所。
 絵麻は熱くなっていた制服のポケットを探り、ペンダントを取り出した。
 祖母が絵麻に遺してくれた、大切な形見。青金石のペンダント。
(――絵麻ちゃん)
 祖母の声が聞こえたような気がした。
(――あなたの役目を果たしなさい)
 瞬間、青い光が絵麻を中心に、物凄い勢いで炸裂した。
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