Love&Place------1部3章2

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「え?」
 翔の言っている言葉の意味がまるでわからない。聞こえているのはいつもの英語めいた別の言葉なのに。
 絵麻はそこで異常を悟った。今までなぜか絵麻の頭の中でされていた翻訳が行われなくなっている。
「どうして?」
 絵麻は自分も困った顔になっていくのを感じた。きっと、さっきみた翔やリリィと同じ顔になっているのだろう。
 絵麻はガイアの字が読めない。言葉が通じなくなってしまえば、意思疎通を図ることができなくなってしまう。
「翔、わたしの言ってることわかる?」
 翔の困惑の色が濃くなっていく。首を振ってくれることもなかった。本当に何も通じていないのだ。
 翔とリリィはメモ帳を使って何かをやりとりしていたが、絵麻にはまるで理解できない。目の前の人がわからず、わかってもらうことができない状況がこんなに怖いことだと思わなかった。
 似たような感覚を学校の教室で感じていたことならあった。クラスメイトが内々の、絵麻にわからないような言葉をわざと使ってからかってくることがあったのだ。わけがわからず、それなのに自分が悪く言われていることだけはしっかりわかって悲しかった。そういえば、あの時も怖かったっけ。
 途方にくれて俯いた絵麻の肩に手がかかって、気づくと絵麻はリリィに抱きしめられていた。その胸は怜悧な外見からは想像がつかないくらいに広く、あたたかかった。
「リリィ?」
 リリィは絵麻を離すと、手を引っ張るようにして台所へ連れて行き、椅子にかけさせてくれた。リリィが体を離すと寒さを覚えたような気がして、絵麻は隣の椅子の背にかけていた上着を引き寄せた。
「とにかく、絵麻の言いたいことがわかるようにしないと」
 翔の声が幾分早口で聞こえた。早口ではあったが、今までのように頭の中で翻訳が発生していた。
「あれ? 戻った?」
 絵麻は翔を見た。翔も絵麻を見た。
「翔、わたしの言ってることわかる?」
「絵麻、僕の言ってることわかる?」
 お互いに同じ事を言ったので、言葉は途中でぶつかってごちゃごちゃになったが、意味はちゃんと通じた。
「わかってる。聞こえてる」
「よかったあ」
 翔が大げさなほどの息をついた。
「でも、何で? 絵麻って僕たちと同じ言葉を話してるんじゃなかったの?」
 どうやら、翔たちには絵麻の言葉は自分たちと同じものとして聞こえているようだった。
 絵麻は違うと首を振った。
「わたしは、日本語……自分の世界の言葉を話してるよ? 翔たちの話す言葉は全然聞いたことがないんだけど、意味はわかるの。さっきはわからなくなってたけど、今は平気」
「そうだったの?!」
 翔の声が奇妙に裏返った。驚いたのだろうか。
「そっかあ。でもどうしてなんだろう? さっきと今で違うこと。今といつもが同じでさっきだけ違ったこと……」
 翔は指を頬に当てて首を傾げ、絵麻を見た。
 ぽんと手を叩く音がして、絵麻はそちらを向いた。翔も同じようにした。そこに座っていたのはリリィで、リリィは翔の方を向いて大きく唇を動かした。指先は真っ直ぐ絵麻を指している。
「うあい……ああ、上着? そっか、さっきだけ着てなかったね」
 リリィが何度も何度も頷く。
 絵麻は自分のブレザーを見下ろした。高校に通うことが決まった時に買い求めた学校指定の制服だ。何代か前の校長が生徒を集めるため、そこそこ名の通ったデザイナーに依頼した結果、学校を制服で選ぶ人が一定数いると噂の今の制服になったらしいが、この話はガイアにまったく関係ないと思う。
「これ、わたしの学校の制服だよ? みんな持ってる普通の奴」
「学校の制服って、絵麻って学校に行ってるの?!」
 なぜか、翔にものすごく驚かれて絵麻のほうが驚いてしまった。
「……みんな行くんじゃないの?」
 高校は義務教育ではないが、進学するのが普通だと思っていた。
「いや、高等学校なんて貴人クラスの財力がないと入れないし、試験だって家庭教師つけても突破できなかったりするし」
 高等学校という名前は同じなのに、何だか話がちぐはぐだ。また絵麻の中の翻訳がおかしくなっているのかと思ったが、それを聞く前にリリィがまた、手を叩く音を使って自分の方に視線を向けさせた。
 リリィは自分の服の襟元をつかんでぐいぐいと伸ばし、もう片方の手で絵麻の襟を指した。
「襟?」
「もしかして、そこについてる金色の奴?」
 翔が指した『金色の奴』とは校章のことだった。
「これは校章だよ」
 絵麻は校章に触れようとして、伸ばした手がブレザーの内ポケットの部分に当たった。そういえばペンダントを入れたような気がする。
 何気なく、絵麻はペンダントを取り出して机の上に置いた。
「あれ、それもしかして力包石?」
 翔に言われて、絵麻は驚いた。
「……これが?」
 翔は瞳を輝かせて、どこからかこの前も使っていた機械を取り出すと絵麻のペンダントにかざした。
「もしかして青金石《ラピスラズリ》じゃないかな? 研究所以外ではじめてみた!」
 翔が言った石の名前は、テレビの鑑定士が言ったのと同じだった。
「ラピスラズリ?」
「そう。全ての力包石の種類をその内に含んでいる『全てに通じる石』。平和姫の光のようだと」
 絵麻は昨日聞いたおとぎ話を思い出した。この世の全ての光から作られ、自己犠牲を以て世界を破滅から救った平和の使者。
「こんなに綺麗な結晶は国府の研究施設にもないんじゃないかな」
 いきいきと語る翔は、まるで少年のようだった。
「絵麻、これをどこで手に入れたの?」
「お祖母ちゃんにもらったのよ」
 絵麻はぎゅっとペンダントを握りしめた。二人の目から隠すように。
「わたしの今年の誕生日に、ずっと大事にしてたこのペンダントをくれたの」
 翔とリリィは、絵麻のただごとではない様子に顔を見合わせていたが、やがて翔が労るように口を開いた。
「だいじょうぶだよ。取ったりしないから」
「嘘」
「こんなことで嘘をついてどうするの? 確かに僕には価値があるものだけど、だからって嫌がる人から取っていいわけないでしょう。絵麻の世界では違うの?」
 絵麻はとっさに答えることができなかった。
 嫌がる人から物を取るのはいけないことだ。幼稚園に通っているような幼い子でも教えられる当たり前のこと。
 けれど、絵麻が絶対に言うことを聞かなければならない相手の姉は絵麻からこのペンダントを勝手に取っていった。だから、いけないことだけど、絵麻はそれを我慢しなければならないのではないだろうか。
 絵麻は握っていた手を開くと、翔にペンダントを差し出した。
「どうぞ」
「絵麻?」
 絵麻はもう一度同じ言葉を繰り返すと、翔にペンダントを持った手を押しつけるようにした。翔はかなり戸惑ったようだったが「借りるだけだよ」と念を押すように言ってから、ペンダントをそっと持ち上げた。
 翔は何か言ったが、その言葉はまた英語めいたものに戻っていた。
「え?」
 翔は絵麻の方を見てさらに何かを言っていたが、絵麻には聞き取ることも理解することもできなかった。
 翔はしばらく話し続けていた。絵麻の異常に気づいたのはリリィのほうで、彼女は慌てたように翔の袖をつかんで自分に注意を向けさせた。彼女は絵麻を指さした。
 それで、翔もようやく気づいたらしい。困ったような顔になった後、翔はふと思いついたように、絵麻の手にペンダントを押しつけるようにして戻した。絵麻は落とさないように慌てて握りこむ。
「絵麻、わかる? 僕が何を言ってるかわかる?」
「わかる……」
「また言葉が通じない状態になってたんだね?」
 絵麻は頷いた。
 翔は何かを確認するように、絵麻の手に戻ったペンダントの青い石を見つめた。
「これが変換装置として働いてるんだね」
 絵麻はペンダントの、顔が映りそうなまでに滑らかな表面を確認した。
「……これが?」
 確かにガイアには力包石という概念がある。掃除機の便利な動力になったり、護身具になったり傷を癒したりできるもの。
 絵麻はペンダントをぎゅっと握りしめる。自分が異国で心細い思いをしなくていいように、祖母が守ってくれているように感じていた。
 でも、どうして? 祖母は現代の人ではなかったのか?
「とても大事にしてるんだね」
「……形見だから」
「形見?」
 問い返されて、絵麻は頷いた。
「お祖母ちゃんは今年の春に……。ペンダントは前の日に渡してくれたけど、誕生日ケーキは作ってもらえなかった。約束してたんだよ」
 絵麻はわざとケーキの部分を強調した。
 本当は、プレゼントもケーキもいらなかった。祖母がいてくれるだけでよかったのだ。でももう祖母が戻ってきてくれることはないから、笑うためにお菓子でごまかす。翔とリリィはそんな顔をする絵麻を複雑そうな表情で眺めていた。
 ペンダントを離すとこの世界の言葉がわからなくなるようだった。忘れず手元に置くようにしなくては。
「ケーキ?」
「うん。お祖母ちゃんは毎年ケーキを作ってくれたんだ。とっても美味しかったのよ」
「絵麻も料理が上手だもんね」
「お祖母ちゃんの方が上手。わたしはお祖母ちゃんに教わったから」
 絵麻は自分の手に戻ったペンダントを見つめて、僅かに微笑んだ。
 リリィが絵麻の手のペンダントを指すと、自分の襟のまわりにくるりと半円を書くようにして指を動かし、頭を片方に傾げた。
「?」
 リリィの表現方法は絵麻はまるでわからないのだが、翔は読み取れるらしかった。
「あ、つけないの、って?」
 つける、というのがペンダントを首からかけることを指していると気づいて、絵麻は自分の頬が引きつるのを感じた。
「あの……」
「そうだね。つけていたほうが離さずにすむし」
 翔に同意されて、リリィは絵麻の手に乗っているペンダントの鎖をつかむと、絵麻の首につけようとした。
 リリィは巻き毛の金髪をしているはずなのに、今自分の前にいる人物はなぜか、真っ直ぐな黒髪をしているように絵麻には思えた。
 ペンダントが首に当たった――そう思った瞬間、絵麻は絶叫した。
「いやああああっ!」
 絵麻は悲鳴をあげてその場にうずくまった。一瞬、喉が灼けて血が出たかと思ったくらいの大声で、どうしてこんな声が出たのか自分でもわからなかった。振り回した腕が椅子をなぎ倒し、倒れた椅子がリリィの足を下敷きにした。
 リリィの表情が痛みで歪むのが絵麻に見えた。ひゅっ、と空気の掠れるような音がした。彼女が声を出せたなら、きっと悲鳴になったのだろう。さっきの絵麻のように。
「絵麻?!」
 床に座り込み、襟元を抑えて呆然としている絵麻と、足が椅子の下敷きになっているリリィを見て、翔はどちらを助けたらいいかとっさに迷ったようだった。それに気づいたリリィが手振りで絵麻のほうを示した。
「リリィ」
 彼女は何らかのハンドサインを翔に示した。翔はそれでわかったようで、絵麻の方に歩み寄って来た。途中に転がっていたペンダントを拾い、絵麻に握らせる。
「大丈夫?」
 絵麻はまだ体を縮め、小さく震えていた。カチカチと奇妙な音が聞こえると思ったら、それは自分の歯が鳴る音だった。
 首に物が触れただけ。ただそれだけ。なのに、どうしてこんなにも怖いのか。抑えきれない恐怖が溢れ、衝動的に爆発してしまうのか。
 おそらく、トラウマになってしまったのだ。だから今までは平気だったのに、シャツのボタンすら留められなくなっている。
「……ごめん、なさい」
 絵麻はペンダントを握りしめ、その手に顔を埋めるようにして泣いた。
「ごめんなさい……」
 祖母からは、人前で泣くのは恥ずかしいことだと窘められた。それでも今、絵麻は泣かずにいられなかった。
 翔たちはきっと呆れているだろう。こんな厄介な絵麻を、これ以上置いておきたくないと考えているだろう。そんなふうに思うと、また涙がこぼれた。みっともないと思うのに抑えきれない。
 翔はそんな絵麻を見下ろしていたが、やがて絵麻の側に膝をついた。そっと、なぐさめるようにして火傷の手が絵麻の背を撫でる。
「絵麻は、首になにかが触ると怖いんだね?」
 絵麻はしゃくりあげながらも頷いた。
「わかった。これからは触らないようにみんなで気をつけるから」
「……?」
 顔をあげる。いつの間にかリリィも側まで来ていて、絵麻を心配そうに覗き込んでいた。
「ずっと怖がってたのに、気がつかなくてごめんね」
 翔にそう言われて、絵麻は涙でいっぱいになった目を彼に向けた。
 翔は困ったようにきょろきょろとして、助けを求めるようにリリィを見た。彼女は心得たようにハンカチを取り出すと、絵麻に渡してくれた。絵麻が借りた毛布と同じ匂いがした。
「どうして……?」
「何が?」
「わたし、厄介者なのに。いらない子なのに。どうして放り出さないの?」
「え?!」
 翔とリリィは顔を見合わせた。
「ちょっと待って。誰がそんなひどいこと言ったの?」
「ひどいこと?」
 絵麻が目を瞬くと、涙が頬を伝って落ちた。
「……ひどいの?」
「ひどいに決まってる!」
 翔の顔からはいつもの穏やかな表情が消えていた。
「いらなかったら放り出すって、子供のおもちゃでもそんなことはしないはずだよ」
「悪い子にはそうしていいんじゃないの……?」
「絵麻は悪い子なの?」
 静かに問いかけられて、絵麻は返答に詰まった。
 自分が良い子だとは思えなかった。どんな理由があったとしても、実の両親より大切にしてくれた恩人である祖母の葬儀を欠席したのだから。
「お祖母ちゃんのお葬式をさぼった……」
 しばらくして、絵麻は掠れた声で言った。
「それだけ?」
「それだけって」
 すすり泣いていたのが嘘のように問い返した絵麻に、翔は今度は憐れむような目を向けた。
「何か出られない事情があったんじゃないのか? 僕には、絵麻が大切なお祖母さんのお葬式をさぼって遊ぶ人には見えないよ?」
 翔の隣で、リリィが絵麻にわかるように大きく頷いていた。
 なぜ、彼らは絵麻を信じてくれるのだろう。
 クラスメイトも親戚も、絵麻の身近な人は誰も信じてくれなかった。それなのに、たった数日一緒にいただけの人たちが、絵麻を信じてくれた。
「どうして……なんで……」
 もっと言わなければならないことがあるはずなのに、口は回らず、泣いたせいか頭もぼうっとしていた。そして何より、ひどく安心していた。こんなふうに感じたのは久しぶりだ。祖母が亡くなってから、絵麻はこんなに安心したことはなかった。泣いたせいか体が熱くて、眠いときのように上手く動かすことができない。
「絵麻?」
 頭をふらつかせた絵麻を、慌てて翔が抱き留める。広い腕の中はひどくあたたかくて、絵麻は目を閉じた。どこかで目覚ましのアラームのような、耳障りな警告音を聞いたが、止めようとは思わなかった。そのまま眠りに落ちた。
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