Love&Place------1部2章6

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「翔さんとリョウさんはどこに行かれたんですか?」
 信也が目を丸くしたので、絵麻は慌てて謝った。
「いや、敬語なのがおかしくて。どこの貴人のお嬢様かと思うから」
「キジン?」
「あ、それも通じないのか」
 そう言われて、絵麻はごめんなさいと俯いた。信也が苦い顔になる。
「貴人は偉い人というか、一種の権力者……でいいのかな」
 信也はそこで視線を巡らせた。おそらくリリィを探したのだろうが、彼女はこの場から消えていた。彼は困ったようにがりがりと茶色の髪をかき回した。
「後で翔に説明してもらえるように言っておくよ。あと言葉、丁寧にしない方がいいぞ。少なくともこの辺りでは。貴人ってだけで文句つけられる場合もあるし」
 権力者なのに文句をつけられてしまうのだろうか。
「そうだ、どこに行ったかって話だったな」
 信也は本題を思い出したようだった。
「二人とも仕事だよ。翔は平和部隊の本部で、リョウは併設の病院」
 平和部隊という言葉は昨日も出てきたが、わからない言葉の一つだった。
「あの、平和部隊って……」
「この国は長い間内戦状態にあってな。この国を丸ごと更地にしようとしてるのが武装集団、抵抗勢力が平和部隊だ。俺たちは平和部隊の臨時隊員」
「内戦?!」
 思わず声が裏返ってしまい、絵麻は慌てて口を押さえた。
 だから昨日、翔と出会った場所が焼け野原だったのだ。
「そんなに驚くほどのことか?」
 信也は驚いた絵麻に驚いたようだった。
「驚く……戦争なんてもうずっと前に終わったもの、でしょ?」
 もちろん、世界各地で規模の違いこそあれ争いが続いているのは知っているが、そんな現状を知っている両親が太鼓判を押すほど安全な日本に絵麻は住んでいたのだった。知ってはいるが馴染みがない。
「絵麻の世界には内戦がないの?」
「なくはないけど……わたしの国にはなかった」
 絵麻は頑張って言葉を崩した。丁寧語はいらないと言われても、信也は年上なのだ。翔と同じか彼より年かさに見えるとすれば、絵麻から見れば当然目上になるから難しい。目上に敬語という概念自体がないのかもしれないが。
「羨ましいな」
 信也は僅かの間だったが、何かを思い出すように遠い目をした。
「俺が生まれたときにはもうこの状態だったからな。平和部隊がなかったらとっくにこの国終わってたらしいし……そうだ、平和部隊」
 信也は何かを考るように、時々言葉を切った。
「軍事や、一部の公共設備の運営なんかの権利を、国から委託されてる機関なんだけど。正規の隊員の他に……臨時隊員って区分があって、戦局が激化して、正規の隊員が通常の任務を保留してそちらに赴いたときに、その欠員を埋めるのが臨時隊員。俺たちはそれ。俺とリリィは今日は仕事にあぶれた、ってこと」
 いいことのはずなんだけどなと、信也が笑った。
「俺は説明すんの上手くないからさ。他のことは翔が戻ってくるまで待ってて。建物から出なければ好きにしてくれてて構わないから」
 常識が通じないで外に出られると危ないからなと、信也はそこを強調した。
「ごめんなさい。わかりました……じゃなくてわかった」
 信也は苦い顔をしたが、何も言わなかった。自分の部屋にいるからと言って、彼は台所から出て行った。
 ひとり残された絵麻は困ってしまった。突然好きにしていいと言われても、いつも姉のための料理や掃除に追われているので、自由な時間というのは逆に怯えてしまうのだ。遊んだ後姉に叱られるような気がして。
 部屋に戻ろうと思ったのだが、部屋の空気が埃っぽかったのを絵麻は思い出した。流しが汚れていたことも思い出した。できれば掃除をしたいが、道具がどこにあるかわからない。
 どうしたものかと、絵麻は少し悩んだ。困ったときの癖で、手が無意識にペンダントを探る。
『このまま元気で、間違うことなく真っ直ぐ歩んでくれたら、お祖母ちゃんはとても嬉しい』
 祖母の言葉を絵麻は思い出した。現代ではとても守れそうになかった言葉だ。
 では、今ならばどうだろう?
 ここは現代ではない。姉の評判を気にする人は誰もいない。高校にだって行けない。絵麻が何もせずにいても叱られることはない。
 絵麻はもう一度、ペンダントに指を触れさせた。今度は別の祖母の言葉が浮かぶ。
『人間だから誰だって逃げたいときはあるんだけど、後ろ向きな決断は後から悔やむことが多いのよ』
 姉との比較は高校に入ってから爆発的に酷くなったが、絵麻が中学校を心穏やかに過ごせたかというとそうとも言えなかった。家事との両立で勉強時間が少なく、塾にも通っていなかった絵麻の成績は良いとはいえず、抜き打ちで試験が行われるとその結果がからかいの種になる時があった。
 もう抜き打ち試験は嫌だよと、祖母にそう訴えたことがある。その時に祖母は『後ろ向きな決断は止めた方がいい』と言ったのだ。
『お祖母ちゃんはわたしを助けてくれないの?』
 絵麻は恨めしげに祖母を睨んだ。祖母は水仕事で荒れた手をそっとのばすと、絵麻の額にかかった髪をかきあげて微笑んだ。
『悲しかったね、もう忘れて、周りなんて気にしないでお祖母ちゃんと遊びましょうって言うことはできるし、それがお祖母ちゃんにも絵麻ちゃんにも楽なのはわかるんだけど、絵麻ちゃんのためにならないでしょ? だから、間違えた問題をお祖母ちゃんと一緒に考えましょう。解けるようになっていれば、定期テストの時に同じ恥ずかしい思いはしなくて済むわ。どう?』
 絵麻は渋々その提案を受け入れたのだが、舞由の読みは見事に正しく、その時の絵麻の中間試験の結果は、からかってきたクラスメイトよりほんのちょっとだけ点数が良かった。祖母はわがことのように喜んでくれた。普通の家なら平均点を少しばかり上回っただけでこんなには喜ばないのではないか。
『怖いからできない、なんて後ろ向きな決断はしないほうがいいのよ』
 絵麻の頭を撫でながら、祖母は呟くように言って微笑んだ。その顔が何かをひどく悔やんでいるようで、そこが今でも印象に残っている。
 ――がんばってみようか。
 ここは現代ではない。動いて絵麻が失敗をしても、それは絵麻だけの問題で姉に迷惑がかかることはない。
「好きにしていい、って言ってたもんね」
 絵麻はおそるおそる台所を見回した。レンジはガスレンジではなく、絵麻が知っている形に例えるならIHのようだった。結構大きな規格の流しと、これも大きめの冷蔵庫らしい機械がある。テーブルは席が八個あり、絵麻がここで会った人の数の倍だった。玄関側の壁に白いボードがかかっていて、絵麻のわからない言葉で何か書かれていた。表のような部分もあったが内容まではわからなかった。
 台所で見つけられたのは他には食器棚だけだった。次に絵麻は昨日の居間に行った。様子は昨日とさして変わっていない。絵麻は半ば無意識にソファの覆いを正しい位置に戻し、潰されたクッションを膨らませた。
 ソファセットも昨日の人数の倍は座れそうな大きなもので、もしかしたら他にも誰か住んでいる人がいるのではないかと思われた。平和部隊の寮と言っていたから、他にも出かけている臨時隊員がいるのは考えられた。
 居間にあるのはソファセットとテーブルで、壁沿いに本棚のような棚があったが中身は半分ほどしか入っておらず、絵麻には読めない物ばかりだった。下の部分が扉になっていたので、その中には何かまだ入っているのかも知れなかったが、隠されているものを必要なく開ければ叱られてしまうだろうから、絵麻はそこには触らず台所に戻った。玄関側でも居間側でもない壁にもうひとつ間口があったはずだ。
 行ってみると、そこは絵麻が昨夜使った部屋くらいの広さしかなく、そこにふたつ並べられた立方体の機械のうちひとつが唸りながら動いていた。その音に混ざってばしゃばしゃと水が跳ねる音がする。洗濯機、だろうか?
 黒いお化けや魔法のような力が使われ、内戦のさなかにあるという、現代とは明らかに違う場所なのに、台所の流しや冷蔵庫、洗濯機は何だか見覚えがあるという不思議な事態に絵麻は思わず笑ってしまった。作り笑いではなく自然な顔で。
 洗濯場を見ていくと、入ってきた間口と反対側に細い扉があり、開けてみるとそこから外に出られるようになっていた。ほんの一メートルほど先に森が迫っていて、心地いい緑の匂いがしたが、建物から出ないように言われていた絵麻は素直に扉を閉めた。周囲をぐるりと見回すと端に業務用の大きな掃除機が寄せられていて、その隣に赤いバケツがあって棒雑巾が無造作に突っ込まれていた。
 掃除機を出してみたのだが、コードもプラグもついていなかった。使えないと思って、絵麻はバケツと棒雑巾を取り出した。雑巾は汚れていたが、洗えば問題ないだろう。洗濯機に注水しているホースを見つけられたので、そこから水を借りて雑巾を洗う。洗った水は細い扉から外に撒くと、もう一度新しい水を入れたバケツと棒雑巾を手に絵麻はリビングに戻った。靴の泥で汚れていた床を拭くだけでさっぱりした。本当は棚や窓も掃除したいのだが、同じ雑巾を使えば汚れてしまうだろう。絵麻は何度か水を変えながら台所と玄関の床も掃除した。
「絵麻?」
 呼ばれて振り返ると、階段に信也が立っていた。彼は驚いたような顔をしていた。
「掃除してくれたの?」
「……あの、勝手にごめんなさいっ」
 棒雑巾を持ったまま頭を下げた絵麻に、信也は何度目かに困ったような顔をした。
「いや、こっちは物凄く助かってるんだけど」
 思いがけない言葉に、絵麻は慌てて早口で言った。
「わたしなんかが勝手にやったら気分悪いかなって」
「わたしなんか、って何」
 相手の声の調子が変わって、絵麻ははっと顔を上げた。信也は怒ったような苛立ったような顔をしていた。
「助かってるって言ってるだろう? あんた、何でそんなに卑屈なんだ?」
「ごめんなさい」
「まただ。昨日から一体何度謝ったかわかってんのか? 絵麻は別に俺たちに何もしてないだろう。むしろ逆だってのに」
 逆とは一体何なのか。意味がわからなくて問い返したかったが、できなかった。
 軽い足音がして、台所側の間口からリリィが入ってきた。腕にたたんだ衣類を数枚抱えている。彼女が洗濯機を使っていたのだろう。
 リリィは階段の上と下で言い合いをしている絵麻と信也を不思議そうに見ていた。
「……悪かった」
 誰も口を開かない中、少し経ってから信也がぽつりと言った。その声に被るようにして玄関のドアが開いて、翔が帰ってきた。
「ただいま。あれ、何かあった?」
「絵麻が掃除してくれたんだけど」
「何か廊下が眩しいと思ったらそれだったんだね。ありがとう。でもどうしてうかない顔をしてるの?」
 翔が絵麻の方に歩いてきたので、絵麻は「何でもない」と無理に笑顔を作った。
「道具、片付けてくるね」
「それじゃ、台所で待ってて。お昼食べながら話しよう」
 絵麻がバケツを持とうとしたとき、リリィが絵麻の前にやってきた。絵麻はびくりと体を強張らせる。姉に似た美貌の彼女を見ると、どうしても怖くなってしまう。
 リリィはその様子に少しだけ悲しそうな顔になったが、抱えていた衣類の中からいちばん上の一枚を示すと、片手で台所の方向を示してそちらに歩いて行った。示されたのは絵麻のブレザーだった。
 そういえば、先ほど皿を洗うときに邪魔になったので椅子の背にかけたままだったのだ。注意されたのだろうか?
 絵麻は掃除道具を片付ると、翔に言われたとおり台所に行った。台所のテーブルに、先ほどリリィが持っていたブレザーが綺麗にたたまれて乗っていた。広げてみると、血がついていた襟が綺麗になっていた。
「……洗ってくれたんだ」
 他人の服、しかも、血で汚れた服をあの美人が洗ってくれたという事実に絵麻はただ目を丸くした。
「そういえば、何かあった?」
「リリィが服を洗ってくれて」
「そうじゃなくて。信也と」
 翔が言っているのがさっきのことだと気づき、絵麻は正直に先ほどのことを話した。しかし内容の方は正直とは言い難く、信也がこの場にいれば先ほどと同じ理由で怒り出したのは間違いなかった。絵麻は必要以上に自分を悪く言っていたから。
 翔は絵麻の話を途中で遮ることはせず、聞き終わった後は何かを考えるように頬を指でかいていた。昨日から何度か見た仕草だ。彼の癖なのだろうか?
「あのね、僕は廊下が綺麗になって嬉しいよ。忙しいとどうしても共有の部分の掃除はおざなりになっちゃうから。信也は何か言ってた? 余計なことはするな、って?」
 絵麻は首を振った。
「助かる、って」
「でしょう? 信也は実質のここの責任者だから、綺麗になったら絶対助かるはずなんだ。確かにたまにきつい物言いするし、情のない判断もするけど。絵麻のこと心配してないわけじゃないんだよ」
 絵麻はふと、流しに食器を落としたときのことを思い出した。あの時、彼は食器より先に絵麻を心配してくれた。
「心配だから怒ったんだと思う。絵麻、ずっと自分のこと悪く言うんだもの」
 そういえば信也は、絵麻がごめんなさいと口にするたび苛立ったような顔をしていた。
「悪い人じゃないんだよ。むしろ僕が知ってるうちでもかなりのいい人」
「ここの人たちはみんないい人だよ」
 ぽつりと言った絵麻に、翔は頷いた。
「ありがとう。でも、絵麻もだよ。慣れない場所で知らない人たちが使った部屋の掃除なんて普通できないでしょう」
 褒められて、絵麻は慌てて首を振った。
「わたしは泊めてもらったし、ご飯ももらったから」
「ここは平和部隊の隊員寮だから大丈夫、って言ったでしょう?」
 そこで翔は自分が急いで帰ってきた理由を思い出したような顔になった。
「そろそろ説明はじめようか。でも、その前にお昼ご飯を食べよう。僕、お腹空いちゃったから。絵麻もでしょう? 昨夜は夕ご飯食べられてないんだし」
 翔は鞄から紙包みをふたつ出すと、ひとつを絵麻の前に置いた。
「平和部隊の食堂のだけど」
「ありがとう」
 絵麻はお礼を言ってから包みを解いた。薄いパンに僅かな野菜と肉らしいものを挟んだものが三つと、ピンポン球を二回りくらい小さくしたような何かが入っていた。
「コーヒーいれようか。絵麻は薄めた方がいいんだっけ?」
 翔はリョウがしたように瓶の中から固形の粒を出すとカップに落とし、レンジにやかんをかけた。
「薄めなくて大丈夫」
「そう?」
 少し時間がかかりそうだったので、絵麻はサンドイッチを一切れ、先に食べた。貧弱な見た目に反して肉も野菜も濃厚だった。労働の後だったからかも知れない。
 翔が入れてくれたコーヒーをもらって、絵麻はあっという間に自分のぶんのサンドイッチを食べてしまった。ピンポン球のような丸いものはどうやらチーズのようで、これまた濃厚だった。
「絵麻、もう少し食べる?」
「え?」
「お腹空いてるみたいだよ」
 翔は手をつけていなかった最後の一切れを、絵麻に差し出した。
「昨夜だって食べてないんだし。確かま固堅パンがあったと思うから、僕はそれでいいよ」
 翔はそういうと隣のテーブルに放り出されていたパンの籠を持ってきて、底に残っていたパンを取った。
「ごめんなさい……」
「謝って欲しいんじゃないよ? 僕は自分がしたいようにしてるだけ。夕飯を食べてない人がお腹が空くのは当たり前なんだから。疲れて夕飯を食べられないと、絵麻の世界では犯罪にでもなるの?」
 絵麻は首を振った。否定したくて。どうして自分がこんなに優しくしてもらえるのかがわからなくて。
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