Love&Place------1部2章5

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『深川さんって結女ちゃんの妹なんでしょ?』
 そう言われ続けて、絵麻はすっかり自信を無くしてしまった。
 誰もが目の前の絵麻ではなく、後ろに見えているのであろう結女の話をする。目の前にいる人を相手にしない。それがどれだけ残酷な仕打ちであるか知りもせずに。
『深川さんってお祖母ちゃんのお葬式さぼったんだって?』
 真実を知らずに糾弾する。目の前にはっきりと示されていること、声高に言われていることが真実だと鵜呑みにして。それがどれだけ怖いことであるか知りもせずに。
『最低だよね』
 その言葉がどれだけ絵麻を傷つけたか――。
 なぜ、その言葉を口にできると思ったのか。同級生達が「あの子は家で芸能人のお姉さんに可愛がってもらえるから」と陰で話していたのを聞いたことがある。
 家で優しい言葉をかけられれば、学校で傷ついたことがなかったことになると思っていたのだろうか。ゲームの中の勇者が、宿屋で一晩休むだけで全快するように。
 そんなことはありえないのに。
 まして、姉は絵麻に優しい言葉なんて何ひとつかけてくれないのだから。

 絵麻は目を覚ましたが、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。
 自分の部屋ではない。慣れ親しんだ祖母の家とも、いつまでも余所の家だった父方の親戚の家とも違う。制服のブレザーのまま寝てしまったから、ごわごわとして気持ち悪い。どうしてこんな格好で寝てしまったのだろう。そんなに疲れることをしたっけ?
 そこまで考えて、絵麻は昨日の自分に起きた出来事を思い出した。
 お姉さんと喧嘩になって、突き飛ばされて、気がついたら翔の上に落っこちて、ここは日本じゃない別の世界だと言われたんだっけ――。
 絵麻は起き上がるとブレザーを脱ぎ、たたんで机の上に置いた。その拍子に机に薄く積もっていた埃が舞い上がって、絵麻は眉を寄せた。思いついて、絵麻は部屋の窓を開けた。
 窓の外は一面の緑の世界だった。左側は昨日も見た森へと続いていたが、右側はひらけて、一面をアスファルトではなく草に覆われた大地と畑につながっていた。遠くに街並みのような影がぼんやりと見え、それら全てを包むように真っ青な空が広がっていた。電線で遮断されない空は、絵麻は学校行事で山奥に行ったときぐらいしか見た記憶がなかった。
 都会育ちの絵麻には慣れない風景であり、ここは自分が今までいた場所ではないということを絵麻は実感した。

*****

 部屋にいても何もできないので、絵麻は部屋を出ようとして、その前に服装を確認した。そのまま寝てしまったからスカートもシャツも少し皺になってしまっている。部屋に姿見がなかったので、窓ガラスで確認したらシャツのボタンが二つ目まで外れていた。昨日はブレザーを着ていたから目立たなかったのだろう。
 二つ目を留め、いちばん襟首に近いボタンに指をかけたところで、絵麻は息苦しさを感じて手を離した。
「……あれ?」
 今度は息苦しさを我慢して強引に留めてみたが、すぐにつらくなってしまい、慌ててボタンを外した。それだけで楽になる。
「どうしちゃったんだろう」
 別に学校に行くわけではないし、第一ボタンを外している生徒は多かったから、留めなくて怒られることはないだろう。そう思って、絵麻は上からブレザーを着ると部屋を出た。
 昨日の記憶を頼りに廊下を歩き、階下に下りてみた。朝の明るくなった中で見てみると、建物自体もそこそこ年季が入っているのだが、あれよりもあまり掃除がされていないのだという印象が先に立った。
 昨日の居間には誰もいなかったが、四人は間口を挟んで続きになっている台所に集まっていた。四人がけのテーブルを二組置けるだけの広さがあり、居間側だけではなく玄関側と反対側にも間口があった。
 テーブルの一角で、どうやらパンのようなものを食べていた翔が、絵麻に気づいて笑顔になった。
「絵麻!」
「……おはようございます」
「おはよう。ゆっくり眠れた?」
 こっちこっち、と翔が手招きする。絵麻が空いていた彼の隣に座ると、翔は自分の前に置いていた籠を絵麻のほうに回してくれた。彼が食べているのと同じパンが数切れ入っていた。
「昨夜は眠っていたみたいだから、起こさなかったのよ。絵麻ってコーヒー飲める?」
 レンジの前にいたリョウが、絵麻に尋ねた。はいと頷くと、リョウはカップを出してきて側にあった瓶の中から固形の何かを一粒出すと、レンジからやかんを取ってカップに注いで出してくれた。インスタントコーヒーなのだろうか。
 絵麻は頂きますと手を合わせて、パンを手に取った。つけるものは見当たらなかったし誰も使っていなかったので、そのまま手でちぎって食べた。かなり固くて乾いた味がする。焼いてから何日間か経っているようだ。入れてもらったコーヒーを飲むと想像していたよりずっと苦くて、思わずむせた。
「大丈夫か?」
「熱かったかしら」
 隣のテーブルにいた信也とリョウが気遣ってくれて、絵麻はびっくりして素直に「思ったより苦かったから」と言ってしまった。そのあとで慌てて「ごめんなさい」と謝った。
「こういうのは好みがあるしな」
「少しお水で薄くする?」
 水で薄くするという感覚にびっくりして、絵麻は首を振った。
 お腹は空いていたけれど、パンは数切れしかなかったので全部食べるのは悪いことのように思えて、絵麻は最初に手に取ったパン一切れと苦いコーヒーだけで食事を終えた。
「それだけでいいの?」
 本当はもっと食べたかったけれど、絵麻はそれは言わずに頷いた。
「絵麻。昨日は明日説明するって言ったんだけど、僕、今日急に仕事に出なきゃいけなくなったんだ」
 借りていた皿とカップを流しに下げようとした絵麻に、翔が申し訳なさそうに言った。
「仕事?」
 翔は絵麻より少し年上くらいの外見で、年は多く見積もっても二十歳辺りだろう。無意識に学生だと思っていたが、違ったのか。
「うん。午前中で切り上げてくるから、それまで待っていてくれるかな? 信也とリリィがいるから」
 絵麻は思わずリョウの方を眺めた。
「あたしも今日は外来の手伝いをする当番なのよ。夕方まで戻れないと思う」
 リョウは「行ってくるね」と自分の隣の席に置いてあった鞄を取った。
「いってらっしゃい」
「気をつけてな」
「あんたもね。煙草の火、消し忘れないでよ?」
 リョウは信也に言い返してから絵麻に手を振ると、台所から出て行った。
「ごめんね。できるだけ早く戻ってくるよ。リリィの言いたいことは信也がわかるから」
 翔もそう言い終えると出かけていった。
 昨日よく話したのが翔とリョウだったので、絵麻は少し不安になった。それでも目の前に自分が使った食器がそのままというのは気持ち悪かったので、さっきやろうと思っていたとおり流しに下げた。翔とリョウは食器を洗っていかなかったようで、そのまま残っていた。食器を洗うためのスポンジはすぐ見つかったが、かなり使い込まれていた。洗剤は見当たらない。使っていないのだろうか。
 肩を遠慮がちに叩かれて、絵麻はびくっとして振り返った。すぐ後ろに金髪の美貌の女性が立っていて、驚いた絵麻は手にしていた食器を流しに落としてしまった。ガシャンと甲高い音がする。
「どうした? 落としたのか?」
 音を聞きつけた信也が自分の席から振り返った。
「ごめんなさい!」
 絵麻は慌てて流しの中を確認した。幸い、食器は割れていなかった。
「割れてないんで、その……」
「いや、それよりお前、怪我しなかった?」
 信也が席を立って二人のところに来た。絵麻が無事なのを確認すると、僅かに表情を緩めた。
「よかった」
「あの、洗剤ってないですか?」
 リリィが流しの横に置いてあった容器を手で示した。
「これ?」
 問い返すと、リリィは大きく頷いた。蓋付きの、粉が入った容器だったので、絵麻は調味料入れだと思っていた。
「食器洗ってくれるの?」
「はい。泊めてもらったので……」
「気にしなくていいよ。でも、洗ってもらえたら俺たちは助かる」
 絵麻は腕まくりしようとしたが、ブレザーは捲るのが難しかったので脱いでいちばん手近の椅子の背にかけた。シャツの袖を捲るとスポンジに教えてもらった粉を、適当と思われる分量でふりかけてみる。スポンジを何度か握るとオレンジ色の泡が出てきたので、それを使って、なるべく水を節約するようにして食器を洗った。流しは少し汚れていた。
 洗い終えると、リリィはいつの間にか席を外していた。信也が少し驚いたように絵麻を眺めていた。
「……何か?」
「いや、早いなって」
「そうですか?」
「うん。俺たちだともっとかかるし。ありがとう」
 そう言ってもらえて、絵麻は心の中があたたかくなる感じを覚えた。自宅では絵麻が食器を洗うのは当たり前で、お礼なんて言われたことがなかったから。
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