Love&Place------1部1章9

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 予想したほど、大地への激突は痛くなかった。
 あの高さから叩きつけられたら、言葉にできないほど痛いものだと思っていた。小学校のプールの飛び込みの授業で、体育の先生から腹打ちの危険性についてクラス中が諳んじられるくらいに指導された記憶があるのに。
 そもそも、どうして無事なのだろう? 確かに身体はびりびりして上手く動かせないけれど、それだって衝撃をやわらげる何かがなければ……。
「あの……」
 その時、遠慮がちな声がした。
 誰かいるのかと絵麻は周囲を見回したが、人の姿は見えなかった。恐ろしいことに、そこは焼け野原だった。さっき空中から見た時はきれいな緑色の大地だったはずなのに、草木は見あたらなかった。
「どいてもらってもいい? 重いんだけど」
 初めて見る凄惨な光景に絵麻の目が釘付けになっていると、もう一度声がした――絵麻の真下から。
「っ?!」
 視線を下げてみれば、そこには絵麻の下敷きになる形で人がいた。うつぶせなので顔は見えないが、おそらく男性だ。
 絵麻は悲鳴をあげてその人物の背から転がり落ちた。重さがなくなったことを確認するようにして、その人物はゆっくりと体を起こした。右手が額を抑える。
 絵麻が思ったとおりに男性だが、線のやわらかい顔立ちをしていた。絵麻とよく似た黒髪は日の光があたると青い色に透き通った。絵麻より少し上くらいの年頃に見える。姉と同じくらいなのか。
 そう考えた時、なぜか体の内側が震え出したように絵麻は感じていた。
「いてて……頭打ったみたいだ」
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
 絵麻は額を抑えた青年に尋ねた。
「うん。休めば問題ないと思う。それより君は? この街の人?」
「街?」
 絵麻は周囲を見回した。
 見渡す限りの焼け野原で、街なんてどこにも見あたらない。いや――よく見れば焼け跡には柱と思しき残骸や、焼けるのを免れた家の基礎のようなものが残っている。
「シェルゼンの人ではないの?」
 耳慣れない名称を問い返そうとして、絵麻はそこで初めて、青年が日本語を話していないことに気づいた。耳に届く音は日本語とは全く違っている。それなのに、絵麻の頭の中では勝手に日本語に変換されている。
「あの……わたしの言ってること、わかりますか?」
「? わかってるけど?」
 青年は僅かに不審がるような顔になった。
「それじゃ、ここはどこですか?」
「ガイア国西部、ヴェール地方シェルゼン」
 頭の中で、絵麻はその言葉を反復してみた。
 聞き覚えがない。だいたいガイアという国自体、地球上に存在しているのだろうか。国際支援の仕事をしている両親の関係で、絵麻は唯一、海外の事情については同級生より聡い。それでもガイアなんて国は知らない。
 そもそも、絵麻はどうしてこんな場所に来たのか?
「襲撃の影響で混乱してるのかな。怪我をしてるみたいだけど大丈夫?」
 青年は困ったように指先で頬を掻くと、もう片方の手で絵麻の首の辺りを示した。
「?」
 絵麻は自分の首元に目線を落とした。
 制服とシャツの襟が、赤黒く染まっていた。そして絵麻の首にはくっきりと、鎖がくい込んだ痕が浮き上がっていた。指で触れると、でこぼことした感触がはっきりわかった。
「……!」
 この場所にいる理由を思いだした。
 絵麻は姉に殺められたのだ。ここは死後の世界なのだ。だから言葉も耳慣れず地名も知らない。焼け野原ということは地獄なのか。
「お祖母ちゃんはどこ?」
 すがるようにして呼んだ絵麻の様子が不憫だったのか、青年は表情を緩めた。
「ご家族? 無事なら待避所に行ってると思うけど。それより、君の怪我は? 痛むようなら君だって待避所に行かなくちゃ。場所、わかる?」
 絵麻は首を振った。
「ごめんなさい」
「別に謝る事じゃないでしょう? 怪我をしてるんだし。待避所に送っていくぐらい、僕にだってできるから」
 とにかく行こうと、青年は絵麻を促して立たせた。青年自身も立ち上がると、白っぽい色のズボンの汚れをはたいた。彼はかなり背が高くて、同級生の中では平均に近い身長の絵麻でも肩に届くのがやっとだった。歩幅が違うのと、焼け跡の足場の悪さで置いて行かれそうになっている絵麻に気づいたのか、青年は途中で歩調を緩めた。
「大丈夫? 歩ける?」
 絵麻はこくんと頷いた。そのあとで、青年がさっき頭が痛いと言っていたのを思い出した。多分、絵麻とぶつかったせいだろう。
「あの、頭痛いのは大丈夫ですか?」
「ありがとう。僕も大丈夫だよ」
 彼は言いながら、上着のポケットから何かを取り出した。板チョコレートを半分にしたくらいの大きさのそれは、どうやら機械のようだった。
「確認するけど、君はシェルゼンの人ではないんだね?」
 絵麻はこくりと頷き、ごめんなさいと付け足した。
「名前は? わかる?」
「名前……」
 いつからか、絵麻は自分の名を名乗ることを避けるようになっていた。
 自分の名前が嫌なわけではもちろんない。『絵麻』と名付けてくれたのは大好きな祖母だ。多少珍しい名前ではあるが、きちんと由来もあってそれを含めて気に入っている。
 深川絵麻と名乗ると、芸能人に同じ苗字の人がいるよねと返ってきてしまうのだ。姉だと言えば騒がれて事態がややこしくなり、黙っていてもなぜかどこかに情報網があるようで「何で教えてくれなかったの?」と言われる。絵麻ではなく結女が基準になってしまって、話が上手く噛み合わなくなる。
 それでも、もしかしたらその頃はまだましだったのかもしれない。今ではもう「芸能人と同じ苗字だね」とは言われない。絵麻の名前自体が「育ててくれた祖母の葬儀をさぼり健気に頑張る姉を泣かせた最低の妹」として知れ渡ってしまったため、名乗った時点で、酷いときは顔を見られた瞬間に眉をひそめられるか嘲られるかになる。
「照会するから。君、相当混乱しているみたいだし。どこの住民かわかれば、君のわかるところまで送ってあげるから」
 そう言った青年の声はなだめすかすような調子ではあったが、絵麻を心配してくれているようだった。自分を見る目に、気遣うような色があった。それはもう随分前に見たきりの、祖母のものに似ていた。
「深川絵麻」
「フカガワエマ、と」
 何か言われるかと絵麻は身構えていたのだが、青年にとっては音以外に何の意味もないようだった。眉一つ動かさず機械を操作し「近隣での住民登録はないみたいだね」とだけ言った。登録を調べるという意味だけがあったことになる。
「それだけ?」
「それだけって、他に何かあるの?」
 絵麻は首を振った。
「僕は翔。とにかく、シェルゼンの待避所へ行こう。現状についてはそこにいる隊員の方が詳しいし、君のご家族も逃げてきているかも」
「逃げるって、あの、ここで一体何があったんですか? ここは地獄じゃないの?」
「地獄?!」
 翔と名乗った青年が驚く。
「ここはまだ現世だよ。武装集団の襲撃でだいぶ混乱してるみたいだね。その容姿なら無理もないけど」
「襲撃?!」
 今度は絵麻が驚きで声が裏返ったのだが、翔はまるで天気の話でもしているような顔をしているのだった。
「? 何をそんなに驚いているの?」
「何をって……あなたは何でそんなに驚いてないんですか?」
「別に、いつものことで」
 翔は続けようとしていたのだが、急に口をつぐんで周囲を見回した。
「あの、何か」
「静かにして」
 絵麻の問いかけを途中で遮ると、翔はもう一度手の中の機械を操作した。それから絵麻を見て、少し考えるような素振りを見せた後、焼け残っている建物の陰に隠れているように言った。
「え?」
「いいから、言うとおりにして」
「あの、一体何?」
「後で説明する。死にたくないなら隠れていて!」
 翔は着ていた上着を脱ぐと、ばさりと絵麻の頭上から被せた。
「えっ?!」
「取ったら駄目だからね。いい? 被ったままで隠れているんだよ」
 何かの冗談のようだったが、そう考えるには翔の態度はあまりにも真剣で、逆らいがたいものがあった。絵麻は言われた通り、頭から被せられた上着の袖をぎゅっと握って建物の陰に身を隠し、翔の様子を伺った。
 翔はその場に残って、周囲と手元の機械を見比べていたが、やがて彼は絵麻と反対側に身を潜めた。
 一体何なのだろう。何かの冗談?
 絵麻は翔が見ている方向を目で追いかけた。そちらは絵麻たちが歩いてきた方角だったが、いつの間にか黒い霧がたちこめていた。
 いや、霧とは少し違う。ちょうど人間ひとり分くらいの大きさで漂っているのだ。しかもそれは、髪の長い女性の姿に見えた。
 その黒い霧は左右に頼りなく揺れながら、絵麻たちの方に進んできていた。髪の部分の影は揺れるたびに広がって、何匹もの蛇が巻き付いているかのようだ。
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