Love&Place------1部1章3

戻る | 進む | 目次

「……片付けなきゃ」
 絵麻はそう呟くと、台所からラップを持ってきて皿にかけた。冷蔵庫に片付けようとしたのだが、祖母の言葉を思いだして思いとどまった。
『冷蔵庫に片付ける時は、温かいものは冷めてからにしなさい。冷蔵庫の温度が上がって他のものまで台無しになるよ』
 祖母の優しい声を思いだした絵麻の顔にゆっくりと笑みが広がる。先ほどまでのひきつった、作り物の笑顔ではなく絵麻本来ののびやかな優しい笑顔だった。
 絵麻に料理のことを教えてくれたのは母方の祖母、藤江舞由(まゆ)だった。料理だけではなく、掃除や洗濯といった家のことからお伽噺まで、舞由は自分の知っているものを惜しみなく孫娘の絵麻に与えてくれた。
 優しい人だった。絵麻の周囲にいる人の中で、結女より絵麻を可愛がってくれたのはこの祖母だけだった。周りはみんな結女の美貌を褒め、学歴を褒め、ひっきりなしにテレビに出るタレントであることをわがことのように自慢にしていたが、その妹の絵麻については気にもかけないか「あんなに綺麗で洒脱な姉にくらべて、どうしてこんなに平凡なんだ」と嘆く。どうやら親戚にとっては「平凡」とは悪いことのようだった。
 父方の親族はそこそこ人数が多く、結女はどちらかというと父方に似ており、絵麻は母方の祖母――舞由の若い頃とは写真だと区別がつかないくらいにそっくりなため、親族の間で結女を褒める意見が多いのも仕方のないことかもしれない。そういう事実が影響しているのか、舞由は絵麻をことのほか可愛がり、手塩にかけて育ててくれた。舞由は絵麻の祖母だが、その娘である絵麻の母親が短大卒業と同時に絵麻の父親と結婚したので、絵麻が遅い娘だと言っても通じるぐらいに舞由は若かった。過去形になってしまうのが、絵麻にはただただつらく悲しい。
 舞由は今年の春に亡くなった。
 事故だったのか、事件だったのかは未だにわかっていない。その日にある約束をしていた絵麻が祖母の家行ってみると、祖母は変わり果てた姿で庭に転がっていた。
 間違いなく自分で経験したことのはずなのに、絵麻は庭での出来事をあまり覚えていない。あまりに衝撃的なことが重なりすぎていて、わざと思い出さないようにしているのかも知れなかった。絵麻があげた悲鳴を聞いた近所の人が駆けつけて救急車の手配をしてくれ、絵麻は泣き出すのを必死にこらえて姉の携帯電話に連絡をした。仕事中に電話をすることは禁じられていたが、海外にいる両親にすぐに駆けつけてもらうことは難しく、絵麻が連絡できるのはそこだけだったのだ。それから救急車に同乗して病院に行き、祖母は亡くなったと聞かされたところで結女とマネージャーの男性がやってきた。結女は泣いていなかった。いつも見るテレビの中と同じ顔だった。取り乱してすがろうとする絵麻を、結女は荷物でも扱うようにあっさりとマネージャーに渡した。彼は結女に「上手くやるように」と告げると、絵麻の手を引いて病院を出て、目立たないよう病院の裏にとめてあった車に絵麻を押し込んだ。
『何するんですか?! お祖母ちゃんが!』
『君がいると迷惑なんだ』
『……え?』
 何を言われたかわからず、絵麻はミラーの中の男性の目を見上げた。酷く打算的で冷めた目だった。
『わからないのか? これは結女を売り出す絶好のチャンスなんだよ。だから君が泣くと邪魔なんだ』
 人が亡くなったことの何が絶好のチャンスだったのかは、絵麻には今でもわからない。
『そんなの知らない!』
 絵麻は車から出ようとしたが、マネージャーは構わずアクセルを踏んだ。動き出した車からは出られず、絵麻はそのまま自宅へ連れ帰られ丸一日閉じ込められた。
 祖母のところに行かせてと泣いて叫んだのだが、相手にもしてもらえなかった。マネージャーが流していたテレビに喪服を着てハンカチで目頭を覆った姉が映っていた。彼女は嗚咽をかみ殺し、肩を振わせながらも毅然とマスコミに対応していた。
 結女は切れ切れに祖母との思い出を――どれだけいい人で優しい人だったかを語り、最後はハンカチに顔を埋めた。スタッフらしい男性に抱えられてカメラの前を去る直前、結女は一言言葉を続けた。
『妹を……知りませんか』
『妹さんがどうかされたのですか?』
 パシャリという音と共に、カメラのフラッシュが光る。
『今日が告別式だって伝えたのに……姿が見えなくって……』
『どういうことですか?!』
 フラッシュの音が雨音のように強くなる。
 それを聞きながら、絵麻は硬直して立ち尽くしていた。
 その後の事態の流れは素晴らしく早かった。話題に飽いていたワイドショーはこぞって人気絶頂の年若き美人タレントを襲った悲劇を報道し、その中にどういうわけか、どこからかもたらされた絵麻が葬儀の時間にゲームセンターで遊んでいたという情報が混ぜ合わされ、祖母の死と非行に走る妹という悲運の人生を背負った十九歳の深川結女の像がお茶の間に定着した。
 絵麻だって抗議しなかったわけがない。けれど、唯一の味方だった祖母が不帰の人となったため、絵麻の声は誰にも届かなかった。ゲームセンターに行っていた証拠はないが、行かなかった証拠もなかった。その時間に絵麻がどこにいたかを知っているのは絵麻だけで、本当はもうひとりいたのだが、その人物は絵麻にこう言った。
『ご両親は任地に発たれたよ。これから君は結女と二人暮らしだね』
『君は高校生になったんだよね。高校が義務教育じゃないってことは知ってるね』
『芸能界は人気商売だから。結女の評判が悪くなったらどうなるか、わかっているよね?』
 それは警察に駆けこめる脅しだったのだが、絵麻はあまりにも無力だった。親代わりだった祖母を突然、原因もわからないまま亡くし、世間に恩知らずと後ろ指をさされた絵麻は疲れ切って混乱していた。
 こうして、絵麻は周囲の姉に対する評判だけを気にする少女になったのだ。
 今の暮らしがつらくないのかと聞かれれば、もちろんつらい。堂々と陰口をきかされて、それでも笑うことが苦しくないはずがない。
 同級生達は絵麻に何を言っても構わないのだと思っている。何を言っても笑っているだけで、反撃してこないと思っている。お祖母ちゃんのお葬式をさぼって、相手は美人で優しい芸能人のお姉さんに迷惑をかけた悪い奴だから、何をしてもいいと思っている。
 なぜ、そんな風に思えるのだろうか。
 同級生達が見ている深川結女は、テレビのスイッチひとつで消えてしまう映像なのに。絵麻は学校の同じ空間に、彼らの目の前にいるのに。なぜ彼女を信じて、絵麻を信じてくれないのか。同じ事をされたら、彼らはどう思うのだろう。つらくないのだろうか。悲しくはないのだろうか。
 絵麻の場合、同じ目に遭う人は日本中探しても見つからないかも知れないが。
 物思いにふけりながらではあったが、絵麻は食器を片付けて家中に掃除機をかけ、朝干してから出かけていった洗濯物を取り込みたたんだ。夕食を作らなければならない時間は回っていたが、先ほどの料理が手つかずで残っているから温め直せばいい。自分一人のために料理するのは気がひけるし、ごくつぶしのくせにと叱られるかも知れなかった。
 帰宅してからようやく、絵麻はカーペットに座った。ソファは姉のお気に入りの海外製で、絵麻がうっかり座ると、これも叱られる。南向きの部屋にもそろそろ夕闇が忍び寄ってきていた。
 絵麻は制服のポケットを探ると、中に大切に収めていたお守り袋を取り出した。お守り袋といっても安物のフェルト地で、絵麻自身が小学生の頃に家庭科の実習で作ったものだ。当時は上手くできたと思っていたが、今見直すと縫い目はがたがただった。
 大切にしているものはこの袋ではなく中身だった。そっと、手のひらに取り出してみる。もう僅かになった夕陽に、銀色の光がきらきらと反射した。
 お守り袋に入れているのは、見事な銀細工に青い石をあしらったペンダントだ。嵌め込まれた石は不透明だったが、絵麻の顔が映りそうなほど磨き抜かれ、全体が宇宙から眺める地球のように青く、星のような金色の光が表面に散り輝いていた。高校生の絵麻が持つにはまだかなり早い宝石のように思われた。姉でも早いかも知れない。正確な価値は知らない。祖母が遺してくれたというだけで充分だった。
「お祖母ちゃん……」
 小さく呟いて、絵麻はペンダントを手の中に握りしめた。
 このペンダントの本来の持ち主は祖母の舞由だった。舞由は装身具などほぼ持っていなかったのだが、このペンダントだけは特別にケースをあつらえるほどに大切にしていた。
 詳しい話を聞く機会はとうとうなかったが、若い頃の思い出の品のようだった。実際に石以外の台座や鎖は多少黒ずんでいた。幼い頃、確か片付けの折に出てきた時に見せてもらったのだ。
『これとってもきれいだね!』
『あらあら、見つかっちゃったのね』
 祖母が苦笑いして、絵麻の手からペンダントを遠ざける。
『これはお祖母ちゃんの大切な物だから、もっと奥にしまっておきましょう』
『いいなあ。ほしいなあ』
 絵麻はねだったのだが、祖母は笑って聞き入れなかった。
『絵麻ちゃんには危ないからだめよ』
『どうして? あぶなくないよ?』
 いくら絵麻がせがんでも駄目だった。それなのに、今年の絵麻の誕生日の前の日に舞由はこのペンダントを出してくると、絵麻が以前作って祖母にプレゼントしたお守り袋――このフェルトの袋に入れて絵麻に贈ってくれたのだ。
『絵麻ちゃんが十六歳になったからね』
 祖母はそう言ってペンダントを裏返した。古びて黒ずんでいた台座は新しいものと取り替えられていて、そこに「M to E」とイニシャルが細い流麗な字体で刻まれていた。つけてみると、鎖も絵麻に合うような長さで新しくあつらえられていた。
 もう高校生になったんだよね。立派な若い娘さんねと祖母は笑って、絵麻の黒髪の頭を撫でてくれた。
『でも、お姉さんみたいに有名な学校じゃないよ』
 絵麻が入学した高校の偏差値は、県内でも下から数えた方が早い。在校生の評判も、実はそんなによくない。
『どんないい学校に行っても悪い人はいるし、逆に評判の悪い学校にもいい人はいるものよ。絵麻ちゃんが良い子なのは私がいちばん知っているから』
 祖母の声は温かかった。この温もりが翌日には失われるだなんて、絵麻は全然わかっていなかった。だからペンダントをもらえたことを無邪気にはしゃいでいた。
『絵麻ちゃんには、何がいちばん大切なことかをわかれる人になって欲しいってずっと思ってたわ。絵麻ちゃんがこのまま元気で、間違うことなく真っ直ぐ歩んでくれたら、お祖母ちゃんはとても嬉しい』
 絵麻はここでいつも思考を止める。お祖母ちゃんの嘘吐き――罵りの言葉が唇までせり上がって、いつも飲み下す。
 このまま元気に真っ直ぐ歩くのは、笑うよりもずっと難しい。大切な祖母を失って、元気でいられるはずがないじゃないか。
 なぜ、亡くなってしまったのだろう? それも絵麻の誕生日に。
 警察と消防はもちろん、かのタレント・深川結女の祖母と言うこともあってマスコミが相当熱心に調べてくれたのだが、祖母が何故亡くなったかはわからないままだった。少なくとも、絵麻には聞かされていない。
 姉はどうなのだろう。知っていて絵麻に教えていないだけなのか、彼女も知らないのか。絵麻はどちらもあり得ると思っているが、同時にどうでもいいと思っている。わかったところで、祖母はもう自分を抱きしめてくれないのだから。
「誕生日のケーキ、作ってくれるって言ってたのにな」
 祖母が作ってくれるケーキはいつも美味しくて、絵麻が大好きなものだったのだ。早く食べたくて、だからあの日、絵麻は学校が終わってから走って祖母の家に行った。
 泣き出すかわりに、絵麻はペンダントをもう一度強く握りしめた。それはひどく冷たかった。
戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 2013 Noda Nohto All rights reserved.
 

このページにしおりを挟む

-Powered by HTML DWARF-