Love&Place------1部1章2

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 絵麻の自宅は最寄りの駅から十分程度歩いた、閑静な住宅街にある。
 ここが住宅街になったのはごく最近のことで、周囲の家は例外なく真新しいが、その中でも深川家は特に綺麗だった。洋館をモチーフにした洒落た三階建てで、玄関にはきらきら光るステンドグラスの窓がついている。
 こんな豪華な、テレビに出てきそうな家に住めるのは自分のような娘には幸福なことなのだと絵麻は思うようにしている。家の中に家族がいるのであれば、意識せずともそう思えたのかもしれなかった。
 絵麻の両親は二人とも、海外の途上国を支援する団体の職員をしている。忙しい彼らは年のほとんどを海外で過ごし、この綺麗な家にはめったに戻ってこない。悲惨な海外の状況を身をもっと知っている両親は、顔を合わせるたび「絵麻は安全な日本にいるから大丈夫だよ」と繰り返す。
 両親は本当にそう思っているようだった。うちの娘は二人とも安全な日本にいる。こんなに綺麗な家には屋根も暖房もあり、電気と水道が通っている。清潔な道を少し歩くだけで何もかも揃っている店が年中無休で経営している。だから、娘たちは自分たちがいなくたって何の問題もない。
 それは全て真実だったから、絵麻はただ頷いていた。もしも両親の主張に何か問題があれば、否定することもできたのだろうけれど。
 真新しい門扉に手をかけて、絵麻はしばし躊躇った。明るい色の瞳が怯えて家を見上げる。二階には電気が点いている。
 胸の中が、石を飲み込んだように重くなる。
 踵を返して逃げ出してしまいたいような衝動に駆られたが、それを実行する前に囁く声が聞こえて絵麻は顔を上げた。通りの反対側、少し離れたところに買い物帰りの主婦らしき人物が二人、スーパーの袋を下げたまま立っていた。彼女らは絵麻の方を見て何かしゃべっていた。
 ふっと、今朝の学校での光景が頭に浮かんだ。時間も場所も相手も違うのに、凄くよく似ている。
 どうやら自分は、こういう星の下に生まれているようだった。
 絵麻はいつもの通り、口の端だけを僅かに上にあげて笑った。主婦らしき人物が声をあげて馬鹿笑いするのがこちらにまで聞こえてきた。このままだと近寄ってきそうだった。
 こうなると迷っていることはできなかった。絵麻は門扉を押して家の中に飛び込んだ。鍵は開いたままだった。
 玄関もまた家の外観から想像されるとおりの豪華なものだった。白で統一され、靴箱だけが木製だったが自然な艶が出るまで磨きこまれ、その上には綺麗な花束がいくつか無造作に置かれていた。あざやかな黄色い薔薇の下から「深川結女ちゃんへ」と書かれたカードがちらりと顔を出していた。
 絵麻は玄関で学校用のローファーを脱ぐと隅に寄せ、少し先に左右が乱れて転がっていたハイヒールをいちばん使いやすい位置にきちんと直した。
 深川家のリビングは二階に設けられている。階段の先に見える窓から光が漏れているから、姉は既に帰宅しているのだろう。
 絵麻は少し肩を落としながら階段を上がり、リビングにつながるガラス扉を開けた。
「……ただいま」
 広いリビングは南側に面しており、天気の良い日には大きく設計された窓から燦々と光が降り注ぐ。大きなソファセットを置いてもまだ空間が余るほどで、片方の壁際に置かれた薄型テレビは店頭で見るいちばん大きな画面よりさらに大きい。
 そのテレビを見るようにソファに座っていた人物が、物憂げな顔で振り返った。
 二十歳前後のうら若い女性だった。絵麻と同じ色の黒髪だが、背を覆うほど長く伸ばされた髪は細くしなやかかつ艶やかで、蛍光灯の光すら星のようにまとわせていた。
 切れ長の瞳と鼻梁が通った顔立ちは、街頭ですれ違った者が振り返らずにはいられない魅力を醸し出していた。その美女は絵麻を見ると不快感に秀麗な顔を歪め、薔薇色の唇から汚い罵り言葉を吐き出した。
「遅いじゃない。どこをほっつき歩いてたの?」
 絵麻は目を伏せる。
「今日はこれから収録があるの。わざわざ帰ってきてあげたんだから、ご飯くらい作って待ってなさいよ」
「……はい」
「さっさとしてよね。もう一時間もないんだから」
 絵麻はもう一度細い声で返事をする。美女はそれ以上絵麻に話すことはないようで、またテレビセットの方に向き直った。画面の中には美女自身が映っている。誰でも知っている昼のテレビショーだった。
 絵麻は台所へ行くと、そこでようやく鞄を置いた。休む間もなく機械的に手を動かして料理をはじめる。
 この美女こそが絵麻の姉、深川結女だ。国内でも難関と名高い大学に現役で合格した才女のマルチタレント。
 しかし、悲しいかなその評判は「表向き」なのだった。
 結女は絵麻にはとても冷たい。幼い頃から芸能プロダクションに出入りしてそちらで面倒を見てもらっていた結女と、忙しい両親に代わって母方の祖母に育てられた絵麻は一緒にいる時間が少なかったから、余所の家のように一家で食卓を囲んだり遊園地に遊びに出かけた記憶はない。だからつながりが希薄でも仕方がないんだと、自分に言い聞かせる。
 絵麻は冷蔵庫から卵を出すと軽く泡立た。フライパンを熱している間にレタスとハムを出してきて手際よくサラダを作る。フライパンは一度火から下ろして熱を取り、その後火にかけて卵を流し入れる。その中央にチーズを乗せ、鮮やかな手つきで形を整えた。
「お姉さん、ご飯ができたよ」
 画面に見入っていた結女はその声で振り返ると、湯気をたてている食卓を見て不快そうに眉をしかめた。
「またオムレツ? アンタが作るんだったら東京のお店の方が美味しいのに」
 言葉を失っている絵麻には一瞥もくれず、結女は手元のリモコンでテレビのスイッチをぷつりと切った。
「アタシ、やっぱり外で食べることにするわ」
 そういって、結女はリモコンをソファに放り投げるとリビングを出て行った。
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