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「おはよう」
  絵麻は一直線に階段をおりると、玄関と続きになっているダイニングの入り
口に飛び込んだ。
  ダイニングには2人の先客がいた。
  1人はこげ茶色の髪と目をした、背の高い青年。
  シャツとジーンズを無造作に着込んでいて、左耳だけにつけられた赤と銀の
ピアスが陽光を弾く。
  もう1人は紫色の瞳の少女。チョコレートブラウンのボブカットがよく似合っ
ていて、髪の裾からスカーレットのピアスがのぞいていた。
  肩が露出するデザインのTシャツと、革のベストにキュロット。左手首には
鎖形状の銀のブレスレットと、ハードな印象を受ける。
「おはよ」
「今日はちょっと遅かったね」
「ごめん……すぐ朝ごはんにするから」
「怒ってないから気にしないで」
  外見とは裏腹の優しさで、少女は目の前のテーブルに置かれたマグカップを
掲げた。
「ありがと。リョウさん」
「だから、リョウでいいって。もう3日経つのに」
  少女──リョウが苦笑いする。
「言わなかったんじゃないの?」
「言ったよ。信也はまた忘れてる」
  リョウは横にいた青年、信也を軽くにらんだ。
  少女の名前はリョウ。青年の名前は信也。
  一見しただけでは普通に見えるが、絵麻が生きてきた16年間、どこをどうひっ
くり返してかきまぜても(虚構の中以外では)決してお目にかかれなかった
『能力者』なのだ。
「今、作るね」
  絵麻はそう言うと、台所のカウンターの中に入って、昨日のうちに焼いてお
いたパンを取り出した。
  Gガイアのかたいパンではなく、絵麻が自分のやり方で作った、やわらかい
白パンである。
  バターロールの生地を直接オーブンには入れず、一度蒸し器にかけてから焼
くとこんな風に焼け目のつかない、もっちりした口あたりのパンができるのだ。
  パンを出して、コーヒーに使うお湯を沸かしている間に、絵麻は冷蔵庫から
何種類かの野菜とどうやら鳥肉らしい肉を取り出した。
  アスパラに似た細長い野菜を斜め薄切りにして、ピーマンとタマネギもそれ
ぞれ薄切りにする。肉を1センチ幅に切ってフライパンに油を入れると、アス
パラ以外の材料を放り込んだ。
「何作ってるの?」
「『チキンとアスパラのあったかサラダ』だよ」
  カウンターからのぞきこんだリョウに、絵麻は笑顔をみせた。
  肉の色が変わったところでアスパラを入れ、火が通った頃合いを見てあらか
じめ混ぜておいた調味料を加える。大きなボールにレタスを入れ、さっき少し
残しておいたピーマンとタマネギも盛り付け、上からフライパンの中身を上か
らかけた。
「できた」
  盛り付けたのとほとんど同時にお湯が沸いたので、絵麻はそれを使ってコー
ヒーを入れる。
  炒め物とコーヒーの匂いが一緒になって、食欲をそそる香りが台所を満たし
た。
  その時。
「おいしそうな匂い。今朝は何作ってるの?」
  ちょうどのタイミングで、台所に1人の少年が入って来た。
  さらさらの髪は絵麻が知っている誰とも違う、青色がかった黒。黒目がちの、
深い茶色の瞳。
  ジャケットにジーンズというラフな服装だが、左脇に書類の入った鞄を抱え
ているところがちょっと見ると学生っぽい。
「翔」
  その少年を見たとき、絵麻はいつの間にか微笑んでいた。
「おはよ」
「挨拶ヌキで朝ごはんの心配?」
  皮肉を言ったリョウに反抗するように、翔が頬を膨らませる。
「挨拶なら後回しにしても平気でしょ?  ごはんが冷めちゃう」
「……お前、いつからそんな食い意地の張った奴になったんだ?」
「絵麻が来てから」
  呆れたような声を背中で聞き流し、彼はカウンターごしに絵麻の手元の料理
をのぞき込んだ。
「あ、お肉の料理?」
  その声に、絵麻はびくんと肩をはね上げる。笑顔は消えていた。
『朝から油物?  さっぱりしたものがいいっていつも言ってるじゃない!!』
  姉が綺麗な声を甲高く裏返して喚いたのを思い出し、絵麻は肩を震わせた。
「あの、朝からこんなのなんだけど……平気だった?」
「え?  全然大丈夫だよ」
  絵麻の様子に気づいているのかいないのか、翔はあっさりした笑顔をみせる。
「朝から凝ったもの食べれるなんて嬉しいな」
「だいたい、あたし達は朝、パンとコーヒーで済ませてたもんね」
  リョウが同調し、横で信也がうんうんと頷いていた。
「一応、野菜と一緒にしたんだけど……」
「絵麻ってこういうふうに気を使ってくれるからありがたいんだよね」
  その声は、穏やかで静かな、心地よい声で。
(……)
  すっと、絵麻の肩から力が抜ける。
「ありがと……」
「何で?  お礼はこっちがいう方だよ?」
「そうそう。ここんとこずっと作らせてるもの」
「お陰で助かってるよ。時間が好きなように使えて」
  絵麻は目を伏せ、盛り付けおわったボールを3人の方に押しやった。
「どうぞ。冷めちゃうから」
「いただきまーす」
  食器が触れ合う音がして、一瞬の静寂。
  それを破るのは……。
「このパン美味しー。やわらかっ」
「やっぱ、朝から肉食えるのっていいよな。野菜もちゃんとあるし」
「僕はあったかいのが一番いい」
  楽しそうな、幸せそうな声。
(喜んでもらえるのって、やっぱりいいな……)
  絵麻はカウンターの中で、眩しそうに3人をみつめていた。
  と、ドアのところで、小さく物音がした。
「?」
  反射的に顔をそちらに向けると、そこには金髪の少女が立っていた。
「・・・・」
  緩やかに波打つ金髪は後ろで一つに束ねられていて、肌の色は透き通りそう
なほどに白い。
  彫りの深い、端正な顔立ち。
 暁色の唇。
 切れ長の瞳は瑞々しい、新緑の緑。
  服装はシンプルなハイネック。肩には手編みらしい、やわらかそうなショー
ルがかけられ、長いスカートが慎み深く足元を隠す。
  調い過ぎるほどに調った容貌は、見る者に冷たささえ感じさせた。
「おはよう、リリィ」
「ごはん早く食べなよ。おいしーよ」
「……」      
  席につく少女──リリィに向けられていた絵麻の表情が、ふっと強ばる。
  絵麻は未だ、リリィと姉を無意識のうちに重ね、その面影に脅えてしまうの
だ。
  けれど……。
「・・・・・」
「でしょ?  あたしこのパン好きだな。白くてふわふわ」
「サラダ美味しいよ。はい、リリィのぶん」
「・・・・・・・・?」
「こうしとかないと信也が忘れて食べちゃうからね」
「大食いなのはお前だろ?」
「人様のぶんまでは食べないよ」
  翔と信也の、子供みたいなやりとりをみて、リリィはくすくすと笑っている。
  そして、そのままの笑顔で、朝ごはんを食べてくれる。
「・・・・・」
  調った口元がさっきよりもっと微笑して、新緑色の瞳が少しだけ絵麻に笑い
かける。
(お姉さんじゃない……)
  姉は笑ってくれなかった。
  『美味しい』なんて、覚えてる限り1度だって言ってくれなかった。
(お姉さんじゃない……?)
「ね、絵麻は食べないの?  冷めちゃうよ」
「あ……食べる」
  絵麻は自分が使っている食器をつかむと、みんなが座っている4人がけのテ
ーブルに隣から持って来た椅子をよせた。
「それじゃ、いただきまーす……」
  皿に残っていた白パンに手を伸ばす。
  つかんで、取ったはずだった。
  それなのに。
「……あれ?」
  絵麻は不思議そうに、自分の伸ばした右手をみつめた。
  パンは、そこにはなかった。
  軽い音を立てて、板張りの床を転がっていた。
「え?」
「絵麻?」
「どうしたの?」
「ヘンなの……確かにつかんだはずなのに」
「指が滑ったんでしょ?  そうだよね」
「うん。拾わなきゃ」
  絵麻は立ち上がったのだが……2メートル先に転がったパンにたどり着く前
に、くてっと床に崩れ落ちてしまう。
「あ……れ?」
「絵麻?!」
「ちょっと、どうしちゃったの?!  具合が悪いの?!」
「違う……急に足に力が入らなくなって」
「立てる?」
  翔が手をかして、絵麻を椅子に座らせてくれた。
「さっきもそうだった。つかんだと思ったら指先が急にしびれて……料理して
る時はなんともなかったのに」
「指先がしびれた?」
  翔が表情を変えたのがわかり、絵麻はおそるおそる伏せていた顔を上げた。
「これは、悪いこと?」
「……疲れが取れてないんじゃないかな。むしろ、3日経ってここになれてき
たから、余計に疲れが出て来たのかもしれない。ごめんね、僕らが家事ばっか
りさせてるから疲れちゃったんだよね」
「そんなことないよ。これがいつもだったんだもの」
  絵麻はしごく簡単に言い切ったのだが。
「とにかく、疲れたんだ。今日は休んでいて」
  有無を言わせないような口調で遮られてしまった。
  この3日間、どんな状態でも絵麻の意見を聞いてくれた翔なのに。
  そういえば、さっきまで笑ってくれてたみんなの視線も、どこか厳しい……。
  食べ物を粗末にしたから、怒ってしまったの?
「……わかった。じゃあ、下げる」
  絵麻は椅子の背に手をかけて立ち上がると、せめて少しは役立とうと思い、
いくつかの空いた皿を流しに戻し始めた。
  けれど。

  ガシャン!

  派手な音が台所に響く。
「あ……やっちゃった」
  流しの中には、食器が無残に崩れ落ちていた。
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