【転章】 春の星月夜。 藤江舞由は夜着の上に白のカーディガンをはおると、庭に通じるガラスの 引き戸を開けた。 半分ほど開けて、ちょっと振り返る。 長年暮らしてきた家とも、もうお別れだ。 飾られた写真立てでは、去年植えたばかりの桜の木の下で、自分と孫娘の 絵麻とが笑っていた。 セルフタイマーのカメラで撮ったのだ。何度も何度も失敗し、見当違いな 写真を撮っては笑っていた。 絵麻。自分の血をいちばん色濃く受け継いだ子。 自分は彼女を裏切るのだ。いや、ずっとずっと裏切ってきたのだ。 絵麻はそれを知らずに、何も知らずに自分を慕ってくれた。 「……」 舞由はためらいを振り切るようにガラス戸を開け放つと、裸足のまま庭に 降りた。 丹精込めて手入れした庭。去年より大きくなった桜の若木が散り始めの花 を咲かせていた。 天上から降る光に、舞由は空を見上げた。 空に光る月は、若い頃見慣れた色とは違っていた。 その月を背に、1人の青年が立っていた。 ほとんど白に見える銀髪。赤い瞳。 「カムイ」 「出てくると思っていました。貴女は部屋の中より外が好きだったから」 「私も、来てくれると思っていたわ」 舞由は微笑んだ。 「もうすぐ時間です。覚悟はいいですか?」 「ええ」 舞由は頷いた。 「覚悟なら、とっくの昔にすませたもの。早いものね、あれから16年経っ たなんて」 「長かったですよ。その16年で、何十万の人が死にました」 「続きは地獄で聞くわ」 舞由は微笑んだ。 カムイも微笑む。 「それでは、さようなら。エマイユ」 居間の振り子時計が、12時を告げる。 時を刻む音が響いた瞬間、舞由の胸から血が噴き出した。 「あ……!」 次々と走る傷に、舞由の表情が歪む。 舞由は庭に倒れた。流れた血が、自らが丹精した芝生にこぼれて汚れる。 「ら……いが……」 最期に呼んだのは、誰より愛おしいその名前。 そうして藤江舞由は死んだ。