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「リリィ!」
 絵麻は重いマーチスの体を一生懸命引っ張り、リリィの上からどかせた。
「絵麻、どうして……」
 リリィは泣き出しそうな表情をしていた。
「どうしてここに来たの……私は、貴女に酷い事をしたのに」
 澄んだ声は優しさに満ちていた。
 そこにいたのはいつもの、絵麻がよく知っているリリィだった。
 露になった白い肌に、いくつもの傷ましい暴力の跡がある。
 絵麻はリリィに借りていたショールをそっと、彼女の肩にかけた。
「信じられなかったの。リリィが言った事しか信じたくなかったの!」
「私は……遊女だったの。これは本当の事よ」
 リリィの頬には涙が光っていた。
 失くしていた記憶がよみがえったのは、マーチスに体当たりされ、頭を打
ちつけた時だった。
 8歳の時。リリィの住んでいた西部の村が武装集団に襲われた。自衛兵
だったリリィの父は既に亡く、母は、自らは武装兵に陵辱されながら、それ
でも必死に娘を家の外に逃がした。
 けれど、リリィを保護してくれる人は誰1人なく。
 空腹と不安を抱えて焦土をさまよっていたリリィに、声をかけた者があっ
た。
「一緒においで。お腹いっぱい食べさせてあげるよ」
 人懐こい笑顔で言われ、リリィはその男――人買いの手を取ってしまう。
 人買いはリリィを、武装集団の将軍を相手にする遊郭に売り飛ばした。
「後は話した通りよ。自分の声が客を悦ばせるのが嫌で、声を出さないよう
にしていたら、いつの間にか普通に話すこともできなくなった。PCが遊郭
を襲って火をかけて、友達の遊女はみんな死んでしまった。たまたま、お客
に反抗的な態度をとって、離れた場所につながれていた私だけが助かった。
煙を大量に吸ったせいで記憶は失くしたけれど……」
 リリィの瞳からとめどなく涙があふれていた。
「もういい。話さなくていいよ!」
 絵麻はぎゅっとリリィを抱きしめた。涙があふれて止まらなかった。
 さっき触られただけでもあれだけ気持ち悪かったのだ。
 幼いリリィは、どんな気持ちでいたのだろう……。
「ごめんね……リリィ、ごめんね」
 また涙があふれた。
 リリィは、頭を打ちつけた時に記憶が戻ったと言った。
 リリィが1人でここに来る事がなければそんな事にはならなかった。
 そう。絵麻がパニックを起こさなければ、リリィはつらい記憶を取り戻さ
ずにすんだのだ。
 NONETを抜けて普通の生活に戻り、幸せになれるはずだったのだ。
 それなのに……!
「ごめんなさい……!」
 絵麻は泣き続けた。
 肌に残された暴力の跡が痛々しい。
「リリィ……帰ろう。リョウに治してもらおう?」
 リリィはゆっくりと首を振った。
「私はもう、皆のところには戻れない」
「どうして」
「私は汚れすぎている。もう皆と一緒にいられない」
「そんなことない」
 絵麻は床に落ちていたリリィの服を取ってくると、彼女の膝に置いた。
「帰ろう。帰ろうよ? 皆待ってるから。着替えて、帰ろう?」
 リリィは膝に置かれた衣服にじっと目を落としていた。
 スカートの端から、長い緑色の鉛筆がのぞいている。
 後ろに幸福祈願の印が刻まれた鉛筆。それはカノンの形見だった。
 リリィはそれを抜き取った。
「リリィ?」
「さよなら、絵麻」
 訝しがる絵麻に、リリィはとても綺麗に微笑んで。
「私、貴女の事大好きだったよ」
 自分の喉に、その鉛筆を突き立てた。
「リリィ!」
 止める暇はなかった。
 絵麻の目の前で、リリィは自らの流した血だまりの中に倒れた。
 幸せを願って刻まれた印が、血を吸って汚れていく。
 それを見た時、絵麻ははっきりとリリィを助けられないことを悟った。
「嫌……嫌あっ!!」
 認めない。認めたくない。
 がくりと、絵麻の頭が落ちる。
 それは目の前の現実を拒んでいるのか。それとも、神への届かない祈りな
のか。
「リリィ――ッ!!」
 絵麻は絶叫した。
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