「悪いわね、付き合わせてしまって」
さきほどから1時間ほど時刻がずれて、ここは孤児院の調理場である。
簡素だが大人数の料理を準備できる調理場で、絵麻はメアリーともう1人、
修道女の服を着た車椅子の女性と一緒にパン生地をこねていた。
「いいえ。あとは夕ごはんを作るだけですし」
メアリーの『ある事』とは、孤児院のパン焼きの手伝いだった。
孤児院にいる子供は50人近く。第8寮の5倍である。
食べ盛りの子供もいるから、毎日の食事の支度はシスターとメアリーだけで
は結構たいへんなのだという。
絵麻も時間があると手伝うのだが、それでも毎日というわけではない。『N
ONET』の仕事でエヴァーピースを空けている事だってある。
前はもう1人、カノンという女の子がここを手伝っていた。しかし、彼女は
もういない。今この孤児院を守るのは院長のシスター・パットと、メアリーだ
けだ。
「2人で全部の用事をするのはたいへんですよね。わたしがもっと手伝えれば
いいんだけれど」
「気持ちだけ受け取っておくわ。絵麻には自分の仕事だってあるのだから」
シスターが優しく笑う。
「大きい子達は手伝うから、まるで2人きりってわけじゃないし。それに、ミ
オ姉さんが戻ってくるんでしょう? シスター」
「ミオ姉さん?」
聞きなれない人名にきょとんとなった絵麻に、メアリーが説明する。
「あのね、わたしの前に孤児院の保母をしてたお姉さんが2人いたの。ミオ姉
さんと、それからもう1人、イオ姉さん。イオ姉さんはもう亡くなっちゃった
んだけど、ミオ姉さんの方は結婚して南部の方に移住したのよ」
「そのミオさんって人が、帰ってくるの?」
「ええ、今日の午後には着くって言っていたかしら」
シスターはいつものように微笑んでいたが、その顔はどこか悲しげで。
「ミオとイオはここの孤児院の出身でね、実の姉妹だったの。イオが早くに死
ぬことがなければ、もっと違っていたのでしょうね」
「……イオさんは、内戦で?」
「ええ。救護所で負傷者の手当をしていた時、紛れ込んでいた武装兵に頭を撃
ち抜かれてね」
シスターの声に、この世界では珍しい、死者への哀悼の響きがあった。
「……」
「シスター、メアリーお姉ちゃんー」
沈黙を打ち破るように、ぱたぱたという足音が近づいて来た。
調理場の入り口からひょっこり顔をのぞかせたのは、栗色の髪の小さな女の
子。右目は布でぐるぐる巻きにされている。
その後ろから一緒になって顔をのぞかせるのは、女の子よりもっと小さな女
の子。黒髪を左右でお団子にし、きらきらした瞳は翡翠の緑。
「あ、フォルテ」
「絵麻お姉ちゃんだ! 来てたの?」
フォルテと呼ばれた栗色の髪の女の子は、ぴょんと調理場に入り込んで来た。
「うん」
「元気だった? フォルテ、お姉ちゃんしてたんだよ。偉い?」
「お姉ちゃん……シンシアちゃん、だっけ?」
絵麻は、戸口に立ったまま調理場の中を見ている、お団子頭の女の子を見る。
「うん。シア」
「杏夏、こっちにいらっしゃい」
シスターが呼ぶと、シンシアはにこっと笑って車椅子のシスターの膝に手を
伸ばした。
「しすたー」
「何?」
「おとこのこー、おんなのこー」
シンシアは片言しか話せない女の子だ。
それでも、シスターは根気よく話を聞いていく。
「男の子と女の子がいるの?」
シンシアはにこっと頷いて。
「おきゃくたん。おきゃくたんー」
「お客さん?」
「あ、ミオ姉さんが着いたのかな」
メアリーが調理場を出て、玄関の方に走って行く。
「そうだ。杏夏、絵麻に謝ってなかったわよね?」
「?」
シンシアは孤児院の新入りさんである。絵麻は拉致される前に初めてシンシ
アと会ったのだが、東の方の心を読む一族の血を引くシンシアは、絵麻の不安
定な心の中にあった『恐怖』に敏感に反応し、絵麻をお化けよばわりしてさら
にどん底に突き落とすということをやってのけていた。
「シスター、わたしは別に……」
「ほら、手をつないで」
「シア、こうするんだよ」
シンシアは嫌がったのだが、お姉さん代わりのフォルテが絵麻と手をつない
だのを見て、しぶしぶ真似をした。
「……」
嫌々だった表情が、ゆっくりとやわらいでいく。
やがて、シンシアは初めての笑顔を絵麻に向けた。
「えま姉ー、て」
「?」
「あったか、ね」
気持ちがあの時よりずっとやわらいでいること、この子は感じてくれたのだ
ろうか。
「……ありがと、シンシアちゃん」
絵麻は手をほどくと、そっとシンシアの髪を撫ぜてやった。
「シスター、ミオ姉さんですよ」
その時、調理場にメアリーが人を伴って戻って来た。
年の頃はユーリより少し上といったところか。さらさらの髪は亜麻色で、肩
を覆うほどの長さだ。
瞳の色は茶色。琥珀のようなつややかさの中に、言いようのない憂いがあっ
た。
(……哀しそうな人?)
「お久しぶりです。パット先生」
「いらっしゃい」
シスターが微笑んで、車椅子を進める。
「髪、だいぶ伸びたのね」
「ええ……」
「フーガ達は元気にしているの?」
「連れて来ました。今、表で遊んでいます」
「そう。ゆっくりしていってね」
「はい。……そちらの方は?」
女性……ミオの視線が絵麻に向く。
「ああ。彼女は絵麻。向こうにあるPC第8寮の寮監さんでね、ここの仕事も
よく手伝ってくれるの」
「始めまして。深川です」
絵麻はぺこっと頭を下げた。
「絵麻。こちらがさっき話していたミオよ」
「……美音・M=ボルゴグラード。よろしくね」
ミオは微笑むと、絵麻の手をとって握手した。
その微笑が、やはり哀しげで。
「あ、わたしの手、汚れて……」
「パン、作ってたの?」
絵麻の手は生地をこねた状態で、ひからびた白い粉がこびりついていた。
「あー、シアの髪も白くなってる!」
「しろー、まっしろー」
調理場に笑いが広がる。
そんな中で、ミオは腕まくりして。
「パット先生。私も手伝いますから、とっとと片付けてしまいましょう」
にっこりと明るく、けれど儚げに微笑んだ。