北部、オリンポス半島。
暗雲の垂れ込める空の下に、パンドラ達武装集団の拠点である城がある。
周囲を高い塀に囲まれた、趣のある古城で。
天気が晴れていたら。こんなにも朽ち果てていなかったら、もっと明るい印
象を見るものに抱かせただろう。
背景が時折落雷の走る黒雲では、不気味以外の何物でもないが。
その城の複雑に入り組んだ地下に、城の外装と同じくらいに古びた小さな箱
がぽつりと置かれていた。
例えるなら――骨壷のような。そんな小さな箱だ。
その小ささに反比例するように箱には頑丈そうな鎖が幾重にも巻かれていて。
その鎖の上に鍵のかわりに、鈍い金色の懐中時計が置かれていた。
前にパンドラが血星石をあてていた、あの針のない懐中時計だ。
透き通るように華奢な指が触れると、懐中時計はぱくりと貝のように蓋を開
けて。蓋の裏側には、あちこちひびが入り、一部分が大きく欠けた灰青色の石
がはめ込まれていた。
パンドラ――不和姫パンドラはその懐中時計を憎々しげに見つめると、その
傍らに絵麻の体を乱暴に放り投げた。
投げ出された体はどさりと、箱に覆いかぶさるように崩れ落ちる。
「アレクト、メガイラ」
パンドラは姫の高飛車さで配下を呼び付けた。
「はい」
2人の配下は従順に応えると、手にしていた濃緑の石を差し出す。
濃緑に、不規則な赤い斑紋の散った石……血星石。
「ティシポネ」
「はーい」
楽しげなはしゃぎ声と共に、ティシポネが差し出したのは研ぎ澄まされた刃。
「さて……終わりの時間よ。そして、はじまりの時間」
パンドラは指先を実体化させると、刃を手に取った。
湖面のように青かった瞳が、さっと赫く変わる。
そして、うつ伏せに倒れる絵麻の肩を蹴りあげて仰向けると、その喉に刃を
突き立てた。
呻き声がし、血があふれる――それは、パンドラたちの幻想で。
実際にはそうはならなかった。
淡い虹色の輝きが、絵麻を包み込むようにして守っていた。
「なっ……!」
パンドラが驚愕に赫い目を見開く。
そのまま激情にかられるようにして何度も何度も刃を振り下ろすのだが、
輝きは決して絵麻の体に傷を負わせようとはしなかった。
虹色の光の発生源は、絵麻の手に握られたままの青金石のペンダントだった。
青かった石は、いつの間にか虹の輝きをくるみ込んだ石に変化している。
「……平和姫……!!」
パンドラは叫ぶと、配下に命令した。
「アレクト、メガイラ、ティシポネ! この娘から石を取り上げなさい。
早く!!」
「はいっ」
慌てた3人が絵麻の手の中の石を奪おうとする。
その瞬間、絵麻は意識を取り戻していた。
「……?」
一瞬、現状が把握できないが、すぐに自分が危ない位置にいることを悟る。
自分の目の前に、パンドラと、カノンを殺したあの3人がいるのである。
(逃げなきゃ……)
とっさに仰向けになっていた体をひねる。その時、指先が懐中時計に触れた。
ペンダントと懐中時計が触れ合い、そこから新たな輝きが生まれる。
「――――!!!」
あまりに眩しい光に、その場にいた全員が目を覆った。
その光の中心から、また絵麻の中に流れ込んで来る景色があった。
戦場。敵味方入り乱れて戦うPC自衛団と武装集団。
その戦場を見下ろせる高い場所に、数人の人影がある。
背の高い青年。青年とそっくりの、小柄な青年。
そして、真っ白なサンドレスを着た、肩までの黒髪の少女。
少女は首から青い石のペンダントをかけていた。
背の高い青年に肩をおされ、少女は一歩進み出る。
日に照らされた顔は、絵麻と瓜二つと言っていいほどにそっくりだった。
少女はペンダントを握りしめ、たからかに呪文を唱える。
「輝ける光よ、集いて我が前の闇を打ち滅ぼせ。
――――原子壊!」
ペンダントが呼応するように虹色の光を放つ。光に包まれた武装兵たちが、
次々に消滅していく。
一瞬にして武装兵を消し去った少女は、さながら戦乙女のようだった。
(今の、誰? 幻?)
考える間もなくアレクトが鎌を振りかぶる音がして、絵麻はとっさに後方へ
と飛んだ。
この辺りはもう、直感が体を動かしていた。
逃げ遅れた髪の毛が数本、ばっさりと鎌の餌食になる。
ついで飛んで来たのはメガイラの長針。絵麻は伏せるようにしてそれをかわ
した。
ただし、こうなるともう次の動きがとれない。
「あははのはー。追い詰めたよ、平和姫」
ティシポネが残酷なまでに無邪気な笑顔で言う。
「ティッシーと遊ぼ? 人間ダーツがいい? 血の池プールがいい?」
黄色の瞳の中にある、狂気。
絵麻は無我夢中で、ペンダントをもった手をティシポネに突き出した。
そして、唱えた。
さっきみたばかりの幻影と同じ呪文を。
「『輝ける光よ、集いて我が前の闇を打ち滅ぼせ』」
虹色の光がペンダントに集中する。パンドラが、アレクトが、メガイラが、
ティシポネが驚きに目を見開く。
「『原子壊』!!!」
次の瞬間、弾けた光がティシポネの体を包み込んだ。
「―――!」
ティシポネの体半分があっと言う間に分解され、残る半分も虹色の光に侵食
されてゆく。
「やだあっ、ティッシー消えちゃう! 姫、アレクト、メガイ」
「ティシポネ!」
言葉は途中で途切れ、ティシポネは消えた。
ただ、ティシポネがいた場所にからりと、黒水晶だけが転がっていた。
「……!!」
「ティシポネをよくもっ!!」
激高したアレクトが絵麻に切りかかる。
その鎌も、絵麻の発した光に触れると消滅した。
無論、アレクトもメガイラも無事ではすまない。
絵麻が発した虹色の光は2人を包み込み、パンドラが言葉をはさむ間もなく
消滅させてしまった。
後に残ったのは自分がやった行動の結果に呆然とする絵麻と、憎々しげに
絵麻をにらむパンドラの2人。
そのパンドラの赫い視線に絵麻は弾かれたようになると、部屋を飛び出した。
道はわからなかったが、虹色に輝く光が目の前の障害物を次々と消し去って
くれる。
「逃がさないわよ、平和姫!!」
パンドラの怒声が響く。
絵麻は転がるように、外へと逃げた。
果てしなく闇が続いているような空間を、必死に駆け抜ける。
途中で足が悲鳴を上げはじめたが、止まらなかった。
走って走って、やがてぽつりと、針の穴のような光が見える。
(出られる……!)
絵麻はその方向に向かって駆けた。
光は徐々に大きくなり、出口となる。暗い金色が出口の向こう側で光ってい
る。
その次の瞬間、怜悧な声が響いて、絵麻は横っとびに弾き飛ばされた。
「行かせないと言ったはずよ。平和姫!」
暗い金色の光は、外の明かりを反射したパンドラの髪だった。
黒雲の間からのぞく青い月明かりが、パンドラの逆立った髪をさながらメデュ
ーサのように照らし出す。
「……!」
そんな悪夢のような光景を、絵麻はぼんやりと見つめていた。
弾き飛ばされた時に、頭を打ったらしい。視界の調節がきかない。
激しい目眩と吐き気が、断続して襲ってくる。こらえるのが精一杯。
「思い出したのね。呪文を思い出したのね。私を滅ぼす呪文を!!」
「じゅ……もん……」
「ゆっくりと目覚めるつもりなのね。今度は、自分が何者なのかを悟れるよう
にゆっくりと。
そうやって、また偽善者の真似事をするのでしょう!!
100年前、自分可愛さに世界を売ったくせに!!」
パンドラは激しく罵り、手にしたままの刃を振り上げる。
絵麻はその光景を呆然と見つめ、そして、絵麻のやわらかな喉めがけて切っ
先が振り下ろされる。