「?」
突然とどろいた雷鳴に、絵麻は走るのを止めて振り返った。
雷鳴は絵麻が走ってきた方向から響いてきた。
「……翔?」
絵麻の脳裏に、ふと自分の料理を食べて笑ってくれた少年の笑顔が浮かぶ。
「……っ」
絵麻は唇を噛むと、考えを打ち消すように大きく首を振った。
考えちゃいけない。
あの人達はわたしを道具扱いしたんだ……!!
絵麻はぎゅっと目を閉じ、また走りだそうとした。
その行く手を、牙をむいた狼の群れが遮る。
グル……ガルルルル…………
「!!」
絵麻は立ち止まって、思わずポケットに入れてある祖母の形見のペンダント
を握りしめた。
狼に表情があるわけではないが、感情を例えるなら憎しみといったところか。
無数の目が憎しみにぎらつきながら、絵麻を八つ裂きにしてしまおうと狙っ
ている。
「や、やだっ!」
絵麻があげた悲鳴を合図がわりに、狼の群れがいっせいに絵麻に飛びかかっ
てきた。
その動きが恐怖のせいか……必要以上にスローモーションで流れる。
「こないでぇっ!!」
自分の肩を自分で抱えこむようにして、絵麻は絶叫した。
すると、押さえていた肩から濃緑の波動がわきあがり……飛びかかってくる
狼たちに取りつく。
ギイィィィィィィィィィィィィ…………
濃緑の波動は狼たちを包みこみ、体をえぐっていく。
狼の死骸が山を作るまで5分とかからない。
「あ……」
絵麻と生きている狼たちのの間を、高々と積まれた死んだ狼の骸が隔ててい
る。
無造作に積まれた狼たちの、ガラス玉みたいな目。
──わたしが殺したんだ。
「きゃああっ!!」
その事実を確認した瞬間、絵麻はその死骸に背を向けて、元の方向へと走り
出していた。
その視界に入った全ての狼たちに濃緑の波動が取りつき、敵意や殺意に関係
なくその体を貪っていく。
黒い毛並みに、内容物の緋色が毒々しく映える。
僅かな光に臓物がぬるりとした感触を反射させ、それが累々と重なる。
ギヤァァァァァァァァァァァァ……!!
さっきよりももっと酷い、もっと惨い断末魔が響き渡る。
「……!!」
絵麻はぎゅっと瞼を閉ざした。
それなのに、瞳には臓物の緋色がこびりついている。
わたしが殺した……わたしが殺している!!
殺す気なんかないのに。
(わたし、とんでもないものを持っているの……?)
走っているうちに、次第に息切れがしてきた。
頭が重く痺れ、手足の先にも感覚がなくなってきている。
これ以上走ったら倒れてしまうかもしれない。
絵麻は目についた茂みに転がりこむと、そこの木に身を隠した。
敵と標的とを見失った狼たちがうろつきまわる音がする。
「はあ、はあ……」
絵麻は荒い息をついて、その場に座りこんでしまう。
体が鉛のように重い。
今襲われても走れない。あの波動も見たくない。
と、その時、絵麻の目の前の茂みががさがさと揺れた。
「な、何……?」
絵麻は背後の木に体を押しあてた。
そのまま、じっと揺れ続ける茂みを凝視する。
(狼だったらどうしよう……)
ガサッ……
茂みがひときわ大きく揺れ、月明かりに金色の光が反射する。
「・・」
声なき声で呼びかける、金髪の美女。
リリィ、だった。
「リリィ……」
「・・・・・・・。・・・・」
リリィが微笑する。
月明かりの下、その微笑みは氷の彫像のごとき美しさを放っていた。
「・・・・・・? ・・・・・」
唇だけが動く。
「……」
「・・・・・・?」
「……」
絵麻は答えられない。
薄闇の中の美貌が、怖かったから。
あの冷たい玄関で首を絞めてきた姉を思い出すから。
「・・・・・・・?」
リリィが心配そうな、哀しげな色を新緑色の瞳にたたえて、1歩絵麻に近づ
く。
絵麻は逃れようとして、背中をもっと木の幹に押しあてた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
リリィがまた1歩近づく。
「こないで……」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・」
「こないで!! お願い!!」
リリィは動くのを止めると、今度はじっと絵麻を見つめた。
「……こないで」
絵麻は僅かに首を振る。
リリィの目にたたえられた、哀しげな色が増した気がした。
泣き出しそうな目をしている。
絵麻はその時、はじめてリリィも喜怒哀楽のある、自分と同じ人間だという
ことに気づいた
思いがした。
「……なんで泣くの?」
「・・・・・・・・、・・・・・・・・」
彼女の碧色の瞳が、哀しみの色に染め抜かれる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
リリィは唇を動かしたが、声にはならなかった。
「何を……言っているの?」
絵麻にはその言葉がわからない。いくら耳をすませても、聞こえてはこない。
リリィは白い喉に手を当てた。
「・たし・・くらきらって・・・も・・・ない」
掠れた声。表情が歪み、無理をしているのがはっきりとわかる。
「翔は・なたをたすけ・・・・てた・。ほんと・よ」
「翔が、わたしを助けようと……? うそだ」
「い・っ・・なや・で、だれ・・かんがえ・たの。どうぐに・しないよ・に」
リリィは、絵麻の翔に対する負の気持ちを解こうとしてくれていた。
白い喉に手が食い込み、激しく咳き込みながらも彼女は続けようとした。
「無理しないで!!」
絵麻は悲鳴をあげていた。
背中を押しつけていた木から離れ、リリィの肩に手をかける。
「もう止めて。もういいから……そんなに辛そうにしないで」
絵麻は自分の表情が歪むのを感じた。
「どうしてそんなにしてくれるの? 綺麗な顔、ぐしゃぐしゃにして……そん
なことをわたしのためになんかする必要ないのに」
「わたし・・・どうおもわれて・いい」
リリィはいっそう辛そうに喘ぎながら、それでも言葉を止めようとしない。
「・・・、翔の・と・・は・きらわないで。いい人だから!!」
最後の声はノイズのように激しく掠れながら、絵麻の耳にはっきり届いた。
そのまま、リリィはぐったりと肩を落としてしまう。
「リリィ?!」
リリィは答えず、浅い呼吸を繰り返している。
日常の、ほんのささいなことでも話すことができない人だ。絵麻が考えてい
るよりずっと、体に負担がかかったているのかもしれない。
「リリィ……」
うつむいた絵麻の髪に、そっと暖かい手が触れる。
浅い息をつきながら、リリィが絵麻の髪を撫ぜていた。
「・・・・・・・・」
もう声は聞こえない。けれど、瞳をみれば何を言いたいのかはわかる。
大丈夫──そう言ってくれている。
「うん」
絵麻が頷いた時、また茂みの揺れる音がした。
思わずリリィと顔を見合わせ、その茂みの方をみつめる。
「リリィ、絵麻、いる?!」
聞こえてきたのは、やわらかな男性の声。
「……翔?!」
がさりと音をたてて、茂みから翔が姿を現した。
髪や服のあちこちに木の葉をひっかけて、片手に測定器を、もう片方の手に
シャーレを持っている。
「どうやって……みつけたの?」
「測定器で計った。マスターが2人もいれば十分反応する」
翔は測定器を草の上に置くと、絵麻の横に膝をついた。
かたい声に、絵麻はびくっと肩を震わせる。
「どうして勝手に出て行ったの?」
「……」
「突然出て行ったら危ないだろ?! 亜生命体がうろうろしてるのに」
「ごめんなさい……」
いつもと全然違う厳しい調子に、絵麻は目を伏せた。
もっともっと怒られるにきまってる。そして……。
「リリィも……僕も心配したんだよ。ごめんね」
翔は絵麻の予想とは違った反応を返した。
「?」
「一度は本気で考えたんだ……君も僕も一瞬で楽になる手段を取ろうかって。
でも、君と、絶対殺さないって約束したのに……破ろうとした。ごめん」
今度は翔が目を伏せる。
「ううん……わたしのが悪いよ……吹き飛ばしたし……」
「僕は平気だよ」
翔は静かに笑ってみせた。
「ただ、能力として覚醒しはじめたのなら症状がとても危険だから、すぐにレ
ントゲンで血星石の位置を確かめて、できるなら切除したほうがいいんだけど。
検査みたいになっちゃってもいい? 絶対に道具にはしないから」
「うん……」
絵麻は静かに目を上げた。
そこに、翔がいる。
深い色の瞳が、優しさをたたえて自分を見ていた。
「……」
最初から、ずっとそうだったのだ。
絵麻の痛い部分になるべく触れないように。そう接してくれていたのだ。
今まで、皆が皆、自分の傷に触れるから気づけなかった。信じられなかった。
優しくしてくれる人の存在を。
「帰ろう? 町の方にみんないるはずだから」
「みんな……怒ってた?」
「それはね」
翔は苦笑いの表情になった。
「怒ってないって言えば嘘になるけど……まあ、唯美たちなんかは君の素性を
全く知らない訳だからね。後でちゃんと説明すればわかってくれるよ。そうい
う連中だし、そういうものなんじゃないかな?」
優しい言葉に、絵麻は素直に頷いた。
「リリィ、立てる? 大丈夫?」
リリィも頷き、大きく呼吸をととのえてから立ち上がる。
「行こう」
翔が歩きはじめた先に、自分も続こうとした時だった。
ガルル……
そこに狼がいる。
瞳に殺意をたぎらせ、じっと3人を見据えている。
「またか」
翔がシャーレを構え、リリィも金剛石を取り出して氷の術を使おうとする。
けれど、その狼が絵麻たちに襲いかかることはなかった。
キュイン……
急に狼は甘え声になると、絵麻たちに背をむけて茂みの奥へと歩いていった。
そこには、ひときわ大きな樫の木がある。
狼はその木の上にむけて、甘えた遠吠えを繰り返した。
「……?」
「行かせないわよ」
その時、上から軽やかな──しかし高圧的な、耳にまとわりつくようなソプ
ラノの声が降ってきた。
「誰?」
見上げた先、地上より5メートルは高い位置の木の枝に、一人の少女が腰か
けている。
月光を反射する髪は、サイドだけが長いダーティ・ブロンド。
神話に出てくるかのような体裁の薄物の服は胸元が広く開いていて。惜しげ
もなく白い肌を露出し、それが妖艶な美貌を際立たせる。
天女のような……でもどこか違う、凶々しいもののような……。
少女は薄物の服の裾と長い髪を羽衣のごとく空にたゆたわせ、絵麻たちの前
に舞い降りて来た。
少女はとても美しい容姿をしていた。
妖艶な笑みを浮かべた赤い唇。陶器のように白い頬。
眉はくっきりと美しいラインを描き、その下に強い色を宿した瞳がある。
リリィの『静』の美とは対照的な、華麗な『動』の美がそこにはある。
「知らない? 私はアンタ達のことよく知ってるけどね」
その時、絵麻は少女の瞳が赤い色をしていることに気づいた。
『赤』といっても、赤紫でも朱色でもない。この世の全ての赤をそそぎ込ん
だような『赫』がそこにあった。
「待って……金髪に赤い目……もしかして」
翔が肩をすくませたのが見える。
絵麻は心にひっかかる物を感じて、じっと少女を見つめた。
“『不和姫』パンドラのことだよ。金髪に赤い目以外はほとんどわからない”
確か、翔はこんなことを言っていたような……。
「『不和姫』なのか?!」
翔が絵麻の思いを裏づけるように叫ぶ。
少女──パンドラは妖艶な微笑みとともに頷いた。
「いかにも。私がパンドラよ」
パンドラが艶やかに微笑む。
「あんたが『不和姫』……武装集団の首領だっていうのか」
「そう」
「なんでここにいる?」
「月夜に誘われてお散歩……なんてね。アハハ」
パンドラはからかうように耳にまとわりつく声で笑った。
「目的はアンタたちと同じ」
陶器のように白い指先が、ピッと絵麻を指し示す。
「血星石を取りにきたのよ」
「!」
絵麻はぎゅっと身体を抱きしめた。
「なんで首領のあんたが直々に出て来てるんだ? 部下にやらせればいいはず
だろ?」
「部下がふがいなくってねぇ。そこのお嬢ちゃん1人に簡単にひねられちゃっ
て」
パンドラはすりよってくる狼の顎に手をかけると、その下の喉を苦もなく切
り裂いた。
キャイン……
裏切られたような余韻の断末魔とともに、狼が消滅する。
「アハハハ……」
血の滴る指をねぶり、パンドラが満足気に高笑いする。
「え……」
滴る鮮血に呆然となりながら、絵麻は呟いていた。
「何で……殺すの?」
「使えないからに決まってるじゃない」
「それだけの理由で……?」
「それだけって、他に理由なんかないわよ。それとも、アンタはこんな獣と一
緒に草原でじゃれあうとでもいうの?」
パンドラの赫い目が絵麻を頭のてっぺんからつま先まで、じろじろとみつめ
る。
絵麻をその視線からかばうように、翔が一歩前に踏み出した。
「確か、集めて身体を復活させようとしてるんだったよな……その身体は偽物
なのか?」
その時、パンドラの鮮やかな美しさが、月明かりに蜻蛉のごとく透けた。
「邪魔者の頭脳中枢か……ハハ、アンタ達を消し去るくらいなら、この仮の身
体でも十分事足りるわ」
にっこりと、妖しいまでの美しさで微笑む。
「だから」
パンドラが、ふいに本気の顔になった。
とたんに凄まじい闇が巻き起こり、3人に襲いかかってくる。
「あ……」
「・・・・!」
絵麻は思わず自分の肩を抱きしめた。
けれど、闇は自分におそいかかってこない。
「電磁壁!!」
翔がとっさにシャーレを出し、その闇をふせいだのだ。
電磁波の壁が翔の前に盾のように出現する。さっきの絵麻の暴走も、これを
使って弾き返したのだ。
「翔!」
「アハハ。さすがは最強能力者。でも、確かさっきのダメージが残ってるはず
よねぇ」
パンドラが意地悪く笑う。
「そろそろ本気だしちゃおうかしら? それとも、じわじわのがお好き?」
いいながら、パンドラはさもおかしげに笑っている。本気のひとかけらも出
していないに違いない。
雷を操る翔よりも強い力を、この妖艶な少女が持っているというのか?!
「……逃げて……」
「でも、翔は?!」
「僕は大丈夫だから!」
「けど……」
翔の額には、汗の粒が浮かんでいる。
大丈夫だとは言っていたものの、翔はさっき、気絶するほどのダメージを受
けている。万全の状態ではないのだ。
「リリィ、絵麻のこと頼む」
リリィが頷き、絵麻の体を抱えて闇の圏外へと抜け出す。
その直後に、絵麻がいままでいた場所を闇が押し潰した。
「あっ……!!」
翔の体が大きな木の幹に叩きつけられる。そのままずるずると、うつぶせに
倒れ込んだ。
「翔っ!」
「絵麻……リリィ……逃げ、て……」
倒れながら、翔が手を伸ばす。
「だけど……」
絵麻は翔のところに駆け寄ろうとしたのだが、リリィが強い力でその腕を引っ
張った。
「・・! ・・・・・・・・・・・・・・」
「安心なさい。金髪のお嬢ちゃん」
ふいに背後から妖艶な声が響いて、絵麻は大きく目を見開いた。
(え……)
おそるおそる振り返ったとき、そこには妖艶な微笑があった。
肩に鈍い衝撃を感じて、横っとびに体が弾き飛ばされる。リリィが突き飛ば
したのだ。
リリィはひとりで、圧倒的な力を持つパンドラと対峙していた。
「すぐに3人そろって楽にしてあげる。だから」
パンドラの手から発された闇がヘビのような早さでリリィの右手首にまとわ
りつくと、ひねりあげた。
そこにはいつ具現化したのか、透明に光る薄刃が握られている。
かなりの力なのだろう……リリィの表情が苦しげに歪められた。
「こんな危ない物、持つのお止めなさい。レディには似合わないものよ」
言葉とともに、闇が膨張する。その圧力に、リリィは刃を落としてしまった。
「レディにふさわしいのは」
パンドラはそのまま闇でリリィの手をつかみ、前のめりにひき倒す。
そして、無防備の首筋に掌底から発した闇のかたまりをたたき込んだ。
「!!」
「リリィ?! リリィ!!」
リリィもどさりと前のめりに倒れる。
「血に濡れた手」
パンドラがくすりと笑った。
「さて、次はあなたの番。安心なさい。すぐに終わるから」
パンドラが転がった刃を拾い、絵麻に向き直る。
「まず血星石を取りださなきゃ。どこにあるのかな?」
パンドラが絵麻に向けて手をかざす。と、呼応するように絵麻の腹部が濃緑
の光を放った。
「……そこか」
パンドラの赤い目は、人を殺す狂気に満ち満ちていた。
「…………!!」
絵麻の中に、忘れられない記憶がよみがえる。
調った美貌。狂った瞳。冷たい笑い。
これは、あの夜の姉そのもの……!!
絵麻は突き飛ばされた体勢のまま、木に上体をもたせかけるように座り込ん
でいた。
逃げようと思っているのに、体は動いてくれない。
(助けて……お祖母ちゃん!!)
絵麻はポケットの石を握りしめて、きつく目を閉じた。
パンドラが草を踏む音が近づいてくる。それがある1点でぴたりと止まり、
後に静寂がおとずれる。
「……?」
不気味なまでの静けさに絵麻がおそるおそる目を開けると、すぐ目の前に、
夜の藍を背景にしたパンドラがいた。
手には月光に反射して光る、透明な刃が握られている。
月光のもと、その美貌は凄絶なまでに美しかった。
「あ……ああ……」
ポケットのペンダントを握る手だけに、きつく力がこもる。
「死になさい」