戻る | 進む | 目次

「これでいいかな? ごめんね」
 とりあえずフライパンを放り出した翔はカウンターから出ると、絵麻を近く
の椅子に座らせ、それからもう一度カウンターの中に戻った。
 それから出してきたのが、テーブルに置かれた薄切りのパンとコーヒーであ
る。
「とりあえず食べて。昨日も食べてないでしょ?」
 翔はコーヒーの入ったマグカップを持って、絵麻の正面に座る。
「ありがと……」
 確かに昨日は昼食をとったのみだ。我ながらよくもったものである。
 パンは特に焼いた風もないのにかりかりしている。コーヒーは絵麻が今まで
飲んだ中でいちばん苦かった。
 それでも5分もしないうちに、絵麻は全てをきれいに食べてしまった。
「ごちそうさまでした」
「落ち着いた?」
「うん」
 絵麻はまだ温もりの残っているマグカップを両手で包み込むと。
「わたし、パニックしてばっかり。どうしてこうなったんだろう?」
 小さくぼやいた。
「仕方ないよ。突然別の世界に放り出されれば、誰だって多少は混乱するさ。
 まして、こんな不安定な世界ならね」
「不安定……」
 絵麻はさっき思った疑問を口に出した。
「ねえ、ここは統一されてるんでしょ? なのにどうして平和部隊があるの?」
 平和部隊というのは、発展途上国を援助する米国の民間団体のことである。
 両親の職業上、絵麻はそういうことには16歳という年齢に似合わないほど知
識があり、また敏感でもある。
「どこか別の国を支援しているの?」
「支援は正解。でも支援する場所は不正解」
「え?」
「Gガイア……この国を支援しているんだ。ここに住む人の生活を守るために」
「でも、それって政治家……じゃないな。国王とか、その周囲の人の仕事じゃ
ないの?」
「言ったっけ? 真剣にやってくれていればPCは必要ないって」
 翔の瞳が暗く沈む。
「それじゃ……」
「Gガイアは内戦が絶えない世界でね。国王も政治を投げ出してるんだ」
「内戦?!」
 絵麻は大きく瞳を見張った。
 よく耳にする言葉。でも生活に密着してくることは決してなかった言葉。
「そう。G444年に開戦の記録があるから……100年続いている計算にな
るのかな」
「100年も続いてるの?!」
 太平洋戦争だって5年くらいなのに……。
「今がG561年だから……100年以上か」
「そんなにまでして、一体何を争ってるの?」
「この世界の存続」
「え?」
 絵麻はきょとんとした。
「……本当に?」
「この世界を壊したい集団と、それを防ぎたい集団。2つが100年以上戦い
続けている」
「えっと、壊したい人たちがいて、それを国家が守ろうとしているの?」
「いや。国家はもう見放しているよ」
 翔はマグカップを置くと、小さく息をついた。
「それじゃ、誰が守って……」
 絵麻はそこまで言って、はっとしたように顔を上げた。
「守っているのが『PC』なの?」
「正解」
 翔が小さく笑う。
「PCは国府が投げ出した公共設備を請け負って提供している民営の団体だよ。
 自衛軍や通信局、データ登録課、郵送課とか」
「あ、それで『働いてる』って……」
 さっきの言葉の意図がわかって、絵麻は笑顔になった。
 けれど、また疑問がわいて、絵麻は口を開く。
「みんな働いてるの? 学校は?」
「学校は6〜12歳の義務教育で終わりで、成人するとみんな働きはじめるけど」
「成人って……成人式までの8年何してるの?」
「8年?」
 翔が怪訝そうな顔付きになる。
「成人年齢は13歳だけど?」
「え?!」
 思わず声を上げてしまう絵麻。
「もしかして……13歳から働いてるの?」
「うん」
 翔はしごく当然のことだという風に、あっさり首を上下に振った。
「だいたい独立するみたいだよ。同居する場合でも家賃払ったりとか」
「へえ……」
 絵麻はぼんやりと、自分が13歳だった時のことを思う。
 3年前の話だから、中学1年生。
 ランドセルをやっと卒業した、まだ右も左もわかんない年頃。
 あの時『働け』と言われて、果たして自分に何ができただろう?
「なんか凄い……」
「僕は働かずに上の学校に行ったけどね。それでも14歳の時には学校の付属研
究室に研究員で所属してたな」
「研究……か。翔って、有名人なんだよね?」
 絵麻の声が、僅かにトーンダウンする。
「違うよ」
 それを察知したように、翔は素早く切り返してきた。
「前に大騒ぎになったことはあるけど……今の僕はそんなのじゃない」
「でも、リョウと信也が言ってたよ。今でも取材が来るって」
「全部断ってるよ。そんなことしてる余裕ないし」
「……テレビや雑誌、好きじゃないの?」
「読むのは好きだけど自分が読まれるのは好きじゃないね。そんな事をしてる
暇にもっとやらなきゃいけないことはいくらでもある」
「……」
 絵麻はなんとなく拍子抜けして、翔を見つめていた。
「それって、有名になるより大事なこと?」
「もちろん。こっちの方が大事に決まってる」
 翔はにこっと笑った。
「……何をしてるの?」
 絵麻はぎこちなく聞いてみる。
 有名になるより大事なことって……?
「パワーストーンの研究だよ」
 翔はポケットから例のシャーレを出すと、指先で器用に1回転させた。
「研究?」
「前に話したけど、パワーストーンって鉱物資源になるだけじゃなくて、条件
次第でいろいろな事ができるようになるんだよね。それが面白くて仕方なくて」
「それって……同調したりとか?」
「他にももっともっと……平和的な使い方ができる可能性を秘めてる。同調ひ
とつとってもいろいろな能力があるし、それにまだ不完全だし。死ぬまでにせ
めて同調の分野だけは完成させたいと思うんだけど」
「死ぬまでって……そんなにかかるの?」
「かかるよ。パワーストーンの種類って凄いんだから。それにマスターも探さ
ないといけないし。大変なんだから」
「種類ってどのくらい?」
「トルマリン、ダイヤモンド、ガーネット、ムーンストーン。エメラルドにサ
ファイア、クリスタル。思いつくだけでもう7つだもん。あとはルビィにトパ
ーズ、ジェードにカーネリアンにフローライト。
ブラッドストーンもあるし……気が遠くなりそう」
 言いながらも、翔は笑っている。
 楽しくて仕方がない……そんな目をして。
「……」
 絵麻はいつの間にか微笑んでいた。
 この人は姉と違う。
 有名になる機会に固執し、それでいていつも不機嫌だった姉。
 有名になる機会を捨てて、楽しそうにしている翔。
「そうだ。片付けないと」
 翔はシャーレを元に戻すと、立ち上がった。
「片付けって……翔、仕事は?」
「有給を使った。だから片付け回ってきたんだよな……」
 翔は憂鬱そうに流し台をみつめた。
「回って来る?」
「僕らは家事を当番制にしてるんだけど、仕事が休みだと問答無用で当番にな
るんだよね。
理にはかなってるけど」
「確かに」
 仕事と家事の両立には疲れるものがある。それは絵麻も実体験済みだ。
「これ……どうしよう?」
 流しにはマグカップやお皿が山と積まれている。
 一般家庭の流しより大きいのにも関わらず、だ。
 いちばん上に、さっき翔が焦がしたフライパンが微妙な均衡を保って乗っかっ
ている。
「焦げ付き落とすのって手間なんだよな……」
 ぼやいている翔を見て、絵麻はくすくすと笑った。
「水につけておけばおとしやすいのに……」
「?」
「あ……よかったら、わたしがやろうか?」
「え?」
「こういうの、得意なの。毎日やってたから」
 絵麻はそれだけ言うと、翔をかわしてキッチンの中に入った。
「えっと、これがスポンジで……この石鹸使っていい?」
 翔が言葉をはさむ余地はなかった。
 絵麻は回答を待たずに、かしゃかしゃと洗いはじめていたのである。
 ほどなくして、やわらかい石鹸の匂いが台所を満たし……10分もしないうち
に、絵麻は山積みになっていた食器類を全て洗い終えていた。
 例の焦げたフライパンも同様である。
「ふかなきゃ……布巾か何かある?」
「それなら下の引き出しに……」
「下の引き出し、と」
 言われた通りに絵麻は身をかがめる。キッチンの裏はいくつかの引き出しと
棚になっていて、いちばん下には布巾……というか乾いた布がごちゃごちゃに
収められていた。
 絵麻は一瞬眉をしかめたが、何も言わずにそこから1枚の布を引っ張り出し
て食器をふきはじめる。
 石鹸の匂いがまだ漂っているうちに、流しの横にはふき終わった食器が整列
していた。
 ちなみにこの間、15分強である。
「……」
「あとはしまうだけなんだけど、これ、どこに入れればいいの?」
「そっち側の食器棚だけど……」
 翔はそこではじめてフリーズがとけたように、絵麻をみやった。
「絵麻って凄い! なんでこんなに早くできるの?」
「え……これって凄いの?」
 絵麻は皿を積み重ねながら、ぽかんとする。
「凄いよ。僕こんなことできないもん。どこかでならったの?」
「毎日やってただけだけど……」
「僕は毎日やってもできないよ? 凄いことじゃない?」
「そうなのかな……」
 絵麻は指定された棚に小皿を運びながらつぶやいた。
 当たり前のことなのに。
 当然のことなのに。
 どうしてこの人……ほめてくれるんだろう?
「届かない? 手伝うよ」
 手が止まった絵麻をみて、翔はその手から小皿を取り上げた。
「……ありがと」
「お礼はこっちがいう方だよ。楽させてもらったし」
 翔は暖かい笑顔をみせた。
 深い茶色の瞳からは、嘘をついている様子は微塵も感じられない。
(この人、やっぱりお姉さんとは違う……)
 絵麻は無意識に呟き、微笑んだ。
戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 1997-2007 Noda Nohto All rights reserved.
 
このページにしおりを挟む
-Powered by HTML DWARF-