「チッ……キリはないのかよ」 どのくらい風をおこし、敵を切り裂いただろうか。 シエルは小さく息をつくと、額ににじんだ汗を手の甲でぬぐった。 「お兄ちゃん。アテネも」 「いや。お前はいいから」 能力を使おうとしたアテネだったが、シエルに止められた。 兄は自分の事を戦わせてくれなかった。 何度も申し出たが、お前は戦うなの一点張りで。敵の量が増えた時も、 哉人と分担はしたけれど、アテネを戦わせる事はしなかった。 アテネは、自分が戦力にまるでならないことを知っている。 兄の側にいるのは、ひとえに自分のワガママだ。 リリィや唯美のように戦う力は持っていない。職業の関係で、若干の医 療知識はあるが、リョウのようにはなれない。絵麻のように、後ろから支 援する事もできない。 ここにいられるのは、兄が自分をかばってくれるから。 最初、一緒にいると約束してくれても、兄はNONETに関わらせる気 はなかったようだ。それでも一緒がいいと、1人で危険をおかす兄を待つ のは嫌だと言い張ったのはアテネだ。 風当たりは相当強かったはずだ。けれど、シエルはどうしても譲れない 時以外はアテネがここにいることを許してくれた。そして、自分はずっと アテネを守り続けてくれた。 今も、アテネの前には兄の背中がある。 普通の人とはシルエットが少し違う背中。 ずっとずっと、守ってくれた。一度離れてしまったけれど、それでも想 い続けてくれた。この世でたった1人、アテネを愛してくれる大切な人。 それは、兄妹なら当たり前のことだと思っていた。 けれど、不安がある。アテネがいなければ、シエルはもっと楽に生きら れたのではないだろうか? 片手で生き抜くのは辛い。ささいな日常のことでも、できないことはた くさんある。例えばボタンかけや、髪を洗うこと。両手なら何気なくでき るそれが、シエルにとっては時間がかかり、場合によっては人の手をわず らわせる。 シエルは子供の頃、隻腕だということを理由に、孤児院の他の子供達か らいじめられていた。親がいない事で迫害される孤児院の子供達は、その 中でさらに迫害する対象を作った。 だから、彼は腕の事を他の人にさらさない。いつでも腕があるように見 せるために、できるだけ袖の長い服を着て、どれだけ暑くても脱ごうとは しない。 シエルはそうやって生きている。当たり前にあるはずの『両親』と『腕』 を取り上げられ、他の厄介ごとをくっつけられた。 アテネの存在も、その厄介ごとなのではないか? その思いは、常に心の底にあった。だから、アテネは兄に甘えた。可愛 い、何も知らない、兄がいなければ生きていけない幼子としてふるまった。 抱きしめてもらえれば、まだ兄は自分を必要としてくれているのだと思 うようにした。 まだ大丈夫。側にいても許される、と。 でも、それは果たして正解だったのだろうか? 「あ、ここから崖になってる」 唐突にシエルが言った。 自分達の今立っている位置の、1メートルほど向こう。そこは唐突に地 面が途切れ、深い崖につながっていた。いつの間にか出てきた霧のせいで 気づかなかった。 「って事は、この先には亜生命体いないな。少し楽になりそうだ」 兄の言葉に、アテネはほっと息をついた。 「アテネ。足を踏み外すなよ?」 「うん」 「哉人ー。聞こえるか?」 シエルはポケットから苦労して通信機を引っ張り出すと、哉人に呼びか けて状況を報告していた。すぐに通信は終わる。 「哉人もこっち来るってさ。崖の下から現れてるわけではないから、ここ からまた引き返して叩こうって」 その時だった。 シエルの背後。アテネに話しかけるために振り返っていた、彼の死角。 突然、亜生命体が現れた。 「――!」 「アテネ?」 シエルは振り返ったが、完璧に遅かった。既に亜生命体は、鋭い爪のつ いた、丸太のような腕を振り上げていた。 「お兄ちゃんっ!」 アテネはとっさに、自分の全体重をかけて兄を突き飛ばした。 「……!」 バランス感覚の悪いシエルは、アテネが思ったよりずっと脆かった。彼 はそのまま左側に崩れた。アテネの体は、空いていた右側を通過し、勢い 余って地面にぶつかり、亜生命体の足元を転がって。 そのまま、崖から放り出された。 (!!) 一瞬が永遠に引き伸ばされる。灰色の空。落ちようとする自分の体。 飛んできたワイヤーに、亜生命体の首が切り落とされるのも。 転がったままのシエルが自分を見ているのも、その青い瞳の色もはっき りとわかった。 (お兄ちゃん) 恐怖も絶望もなかった。ただ、兄が無事である事が嬉しかった。 だから、アテネは笑った。 (お兄ちゃん、元気でね) 完全に自分の不覚だった。 妹の目が、驚きに見開かれる。 何なんだと思って振り返ったら、そこには亜生命体がいた。鋭い爪が自 分に向かって振り下ろされる。 声も出なかった。頭が真っ白になっていた。 「お兄ちゃん!」 悲鳴のようなアテネの叫びが聞こえて。その次の瞬間、背中を思い切り 突き飛ばされた。 「……!」 左側に崩れたのは、長年の習性からだった。右に倒れた時、シエルは手 をつく事ができない。右に倒れれば確実に怪我をする。 アテネは、シエルの体のあった右側の空間を、背中を押した勢いのまま 進んだ。 そして、勢いを殺せず地面にぶつかり。亜生命体の足元を転がり。 その先には、崖があった。 (落ちる!) シエルはとっさに手を伸ばそうとした。 けれど、妹に差し出せる手がなかった。 (――!) アテネがいるのは、シエルの右側だ。右腕を伸ばせば助けられる。今な らまだ間に合う。 右腕があれば。 けれど、アテネを、妹を救える腕はなかった。体からいびつに突き出た 残骸が、断末魔のけいれんのようにびくっと動いただけだった。 ――助けられない! 右腕がないから、いつもアテネに不自由をさせた。自分が障害者でなけ れば、アテネは貴族の玩具になんてならなくてすんだ。もっとずっと幸せ に過ごせたはずだ。 両親が残してくれた、たった一つの心の支え。大切な妹。 自分が境遇の寂しさに歪むことなく、わりと常識的に育つことができた のも、妹がいてくれたからだ。無邪気に自分を慕ってくれる存在に、どれ ほど救われたか。 その妹すら、自分は守ってやれない。 落ちていくアテネと目が合う。アテネは、笑っていた。 悲鳴も、恐怖も、ふがいない兄を呪う言葉もなく。ただ、笑っていた。 「アテネっ!」 叫び声が崖にこだました。