桜の雨が降る 2部3章9

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【転章】
「父さん」
 書類作業をしている父に、思い切って明水は声をかけた。
「何だ?」
 父は作業の手を休めず答えた。
「おばさんの旧姓って――深川、ですか?」
「おばさんって、どこのだ?」
「ユウのお母さんです」
 それまですらすらと動いていたペンが止まり、父は明水を見た。その怪訝そうな眼差しの鋭さに、明水の方が驚いてしまう。
「結女さんの旧姓なんか調べて、お前はどうするんだ?」
 明水は答えに詰まってしまった。
 明水の父と結女は、仲が悪くはなかったはずだ。それはもちろん親戚だから、多少のぎくしゃくはある。けれど、叔母のことで、こんな怪訝な目を父がしたのははじめて見た。
「明水。それを知ってどうするつもりなんだ」
 明水は一拍置いてから返答した。
「別に……どうもしませんけど。少し気になっただけです」
 父はまだ訝しげな目で明水を見ていたが、やがて再び書類に目を落とした。
「確かに、結女さんの旧姓は深川だけど」
 言葉の後に吐息が続く。この話題を続けることが得策ではないと判断して、明水は事務所から出ようとした。
「明水」
 名前を呼ばれ、明水は振り返った。父がこちらを見ていた。
「誰かに、おばさんのことで何か言われたのか?」
 どう言おうか、明水は少し考えた。本当は、あの取材記者に言われたのだ。だから深川という名を知った。
 けれど、父親のこの反応を見る限り、この話題は続けるべきではない。
「――いいえ」
 明水は僅かに微笑むと、父にもう一度礼を言って事務所から出た。不自然に聞こえない程度の駆け足で自宅の、自分の部屋に戻る。
「どう考えたものなんでしょうね」
 机の上では、一体型のパソコンがインターネットにつながれたままになっている。
 表示されているのは大手検索エンジンにおける、深川結女の検索結果。優桜が見つけたのと同じページだった。
 叔母は芸能人だった。そのことを隠していた。親族は、この話題に触れようとしない。
 優桜は、叔母の過去が関わる事件に巻きこまれたのではないだろうか。それは明水にとって最悪の想像だった。しかし、いちばん考えられる話なのだ。
「ユウ……」
 明水は机の上に置いてあった桃色の守り袋を握りしめた。
 両親をはじめ、親族中から愛され守られていたいちばん小さな子。彼女が無事成長して幸福になることこそが魚崎家の切実な願望であり、明水もまたそう思っている。いつも自分の後ろをついてきた、可愛い従妹。
 今頃どうしているのだろう。怖い目や痛い目に遭っていないだろうか。食事はちゃんとしているのだろうか? 自分が一緒なら、守ってやれるのに。
「頼むから、無事でいてくださいよ」
 低く呟き、明水は祈った。

桜の雨が降る2部 完

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