桜の雨が降る 2部1章1
1章 少女の格差
喫茶店で、魚崎明水は船場花音の話を聞いていた。
「これがあたし達が優桜と出かけたことのある場所です」
花音は薄緑の便せんを明水に差し出した。半分ほどが字で埋められている。
「警察に言ったのと同じですけど」
「構わないです。ありがとうございます」
ざっと目を走らせる。剣道部の合宿地や試合が行われた体育館がほとんどのようだった。
目の前の少女は、優桜の部活の友人だという。クラスは違うそうだが、明水は優桜から何度も彼女の話を聞いていた。髪の毛を軽い茶色に染めた今時の女の子で、心配事さえなければ優桜の話通りの明るい子なのだろうが、今は友人が失踪したことが花音に暗い影を落としていた。
優桜がいなくなってから、すでに二週間が経っていた。
あの病院前での事故から、優桜は忽然と姿を消してしまった。あの日、心配になった明水は、無理を言って授業を休み優桜を探した。自宅に帰っているかと思ったのだが、家には娘の帰宅を今か今かと待っていた叔父がいただけだった。
ちょっと遊びに行っただけだ。すぐに戻ってくる。信じてもいない気休めは、結局三時間も保たなかった。その日二回目の警察に行った時はもう夜も遅かった。
事故か、はたまた誘拐か。大騒ぎになったが、事故の形跡もなく身代金要求の連絡もなかった。そして調べが進むにつれ、優桜の様子が、母親が倒れたあたりからおかしかったという話が出てきた。優桜は元々父親と不仲であり、仲介役だった母親が倒れたことでひずみが生まれ、それで家を出たのではないだろうか。そういう見方が警察では主流になった。
優桜はそんなふうに考える子ではないと、明水は主張した。確かに優桜は父親と仲が悪い。けれど、彼女は母親が倒れている時に家出をして迷惑をかけるような子ではない。事件か事故に巻き込まれたのではないだろうか。
しかし、誘拐事件だとすれば相手方からの接触がなく、不審な事故も一件しか起こっていない。その事故に優桜が巻き込まれていないのは警察が調べてわかっている。事故にあった少女が突然消えるなんてありえない。集団の錯覚だったのだ。
そうやって、優桜の失踪は単なる家出と片付けられてしまった。まだ調べてくれてはいるようだが、それもいつまでか。
優桜の父がそれで納得するはずがなかったのだが、反論するだけの気力はもはや彼の中に残っていなかった。妻が倒れ、娘が行方不明になった時点でもう致命的だったのだ。仕事の調整をつけるのがやっとの状態で、明水の両親が目処がついた時点で休ませなければならないと相談している。
本来なら、優桜の友人から話を聞くのは父親の役割だろう。しかし叔父は話が聞ける状態ではなく、明水が代わりに優桜の友人や学校の教師から話を聞いていた。
優桜はここ数日、ずっと思い悩んでいたらしい。変わった行動が目立ちはじめていたので、花音たちも心配してくれていたのだそうだ。
その心配が現実のものとなり、優桜は姿を消した。
「優桜、悩んでたんです。何に悩んでるのかはわからなかったけど、深刻だった」
花音の言葉に、明水は頷いた。
あの日、優桜は泣いていた。めったなことでは泣かない優桜が、路上で人目もはばからず大泣きしたのだ。
もっと、ちゃんと聞いてやるんだった。そんな後悔がずっと明水の胸の中にある。
「優桜は連絡すると思います。多分、お父さんじゃなくて魚崎さんに。優桜は従兄弟のお兄ちゃんのこと、好きだったから」
花音にそう言われ、明水は曖昧に微笑んだ。
優桜から連絡があったら教えて欲しいと、明水は花音に自分の携帯電話の番号を渡した。支払いをすませて喫茶店を出る。花音はアルバイトがあるということで、喫茶店の前で別れた。
駅の方向に歩きながら、明水は優桜のことを考えていた。
あの日優桜は、父親が隠し事をしていたと言っていた。もう両親を信じられないと。
それで家を出たのだろうか。父親のしていた隠し事を知って、もう家にはいられないとそう思って。
だが、それはおかしくはないだろうか? 父親の隠し事なら、嫌いになるのは父親だけのはずだ。優桜は懐いていたはずの母親のことも嫌っている。
優桜は父親と仲が悪いが、反面で母親と仲がいい。反抗期真っ盛りのはずだが、二人で遊びに行ったという話を何度も聞いた。娘のいない明水の母親が羨ましがっていたから間違いない。
優桜は母親と仲がいい――仲が良かったのだ。
何があった?
明水は事故のあった日の、優桜に絡んでいた男性を思い出した。
『深川結女の甥ってわけか。それじゃあ罪は隠したいよな』
結女というのは叔母――優桜の母の名だ。明水にとっては義理の叔母にあたる。
では、深川というのは何なのだろう。普通に考えれば叔母の旧姓だとは思うのだが、さすがにそこまで詳しく叔母のことを知らない。両親に聞けばすぐわかるだろうが。
しかし、どこかで聞いたことのあるような名前である。
「深川結女、か」
ひとりつぶやくと、明水は改札機にカードを押し当てた。
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