Love&Place------1部2章3

戻る | 進む | 目次

 絵麻は目を瞬いた。日本がないというのは、日本人である絵麻には想像のつかない世界だった。確かにマスコミは不況や海外との緊迫した関係を頻繁に話題にするけれど、日本がなくなるということは絵麻が生きている間はありえないように思えた。
「その顔だと、絵麻の世界にも『ガイア』って国はないんだね?」
 絵麻は頷いた。その通りだった。
「別の世界の人なんだ。合点がいったよ。だから待避所も武装集団も、闇偶人からの逃げ方もわからない。文字も読めない。となると言葉が通じるのが不思議なんだけど」
 翔は何度も頷いているが、絵麻には余計にわからないことが増えてしまった。
 ここは全く別の世界で、絵麻はその世界の常識もわからず文字を読むこともできない。これからどうすればいいのだろう?
 不安なことだらけのはずなのに、絵麻はどこかで奇妙な安心感を覚えていた。
 ここには姉がいない。自分と姉を比べる周囲も存在しない。
「別の世界って……そんなことがあるのかよ」
「今まであったかなかったかは調べないとわからないけど、実際に絵麻は今、僕らの目の前にいるんだよね」
「どうやってここに来たんだ? その時に通った道とか、覚えてないのか?」
 そう言われて思い出すのは、祖母の声がしたあの暗い場所だ。そこから落ちて翔にぶつかった。となると高い場所にあるということになるが。
「高いところ……空、かな。暗い場所」
「空? 絵麻の世界には空に昇る方法があるの?」
「……多分、ないです」
 ごめんなさいと、絵麻は何度目かに俯いた。
「別にそんなに謝らなくても」
 怪我をしているし、ご家族が心配されてるんじゃないの? 女性はそう言った。
「家族……」
 果たして心配しているのだろうか。両親は海外だから絵麻と結女にこんなことが起きていることを知っているかもわからなかった。結女はどうなのだろう。こんなことになったのは絵麻が悪いと詰って、ペンダントを取り上げられて、今まで以上に従順に振る舞うように言われるのだろうか。
 それとも、もうアンタなんて用なしだとどこかに棄てられてしまうのだろうか。
 絵麻が真っ青になったのを、翔は別の意味に取ったようだった。
「何もわからなかったら混乱するだけだよね。とりあえず、首と肩を手当てしよう? 君は痛くないって言うけど、見てるとやっぱり痛そうだよ」
 翔の言葉に、リリィが何度も頷くのが見えた。
「診せて。少しでいいから」
 女性がゆっくりと絵麻の肩に手をかけて自分の方に向かせようとする」
「待って。首はだめ。怖いの」
 嫌がって身をすくめた絵麻に、女性は宥めるように言った。
「わかった。触らないわ。手をかざすだけだから」
 まるで本職の医師のように慣れた口ぶりだった。でも、手をかざすだけで治療できるのだろうか。
 女性は絵麻の首に手をかざした。手首につけられた、鎖状に銀の輪が連ねられたブレスレットがしゃらんと音をたてる。ひとつだけついていた小さな乳白色の石が光るのが見えた。
 それだけで、首の痛みが消えた。女性がつめていた息を吐き出す。
「はい、おしまい。どう? 見ている分にはだいぶ痕が消えたんだけど」
 絵麻はおそるおそる、自分の指を首に這わせた。ぞっとするような息苦しさと恐怖が襲うが、でこぼことした感触はなくなっていた。
「だいじょうぶです」
 何が起こったのだろう?
「よかった」
 何度もまばたきをする絵麻に、女性はちらりと笑顔を見せた。
「ありがとうございました。あの……」
「ん?」
「どうして治ったんですか?」
 女性は曖昧に微笑み、翔が続きを引き取った。
「絵麻の世界には力包石《パワーストーン》を利用した医療技術ってない?」
「ぱわーすとーん?」
 名前を聞いたことはある。広告の煽り文などに「恋によく効くローズ・クォーツ」「タイガー・アイで宝くじを当てよう!」などと書かれている。
 しかしそれはあくまで「おまじない」であり、その石で本当に恋が叶ったり宝くじが当たるかはわからなかったし、怪我を治せるなんて話は聞いたことがない。そんな魔法のような石があるなら、病院は根こそぎ倒産している。
「力包石は絵麻の世界にはないよね」
「おまじないのパワーストーンなら聞いたことがあるんですけど……ごめんなさい」
「いや、ガイアだけの特産品だから。他国にあると世の中がひっくり返るよ」
 翔は苦笑いした。
「ガイアは、力包石の力で興された国なんだ。力包石って、見た目は普通の石なんだけど、特定の回路に接続してやると電気的なエネルギーを生み出すんだよ」
 翔は周囲を見回すと、居間の棚の上に置かれていた長方形の機械を取ってきた。ダイヤルとアンテナがついたそれは、絵麻の目にはラジオのように見えた。翔の指がスイッチらしい基盤を操作すると、音楽が流れてきた。
「これ、ラジオなんだけど。ラジオはわかる?」
「はい」
 翔は絵麻が頷くのを確認すると、ラジオをひっくり返した。そこには電池蓋の代わりに棒状の半透明の石が嵌め込まれていた。
「下の部分が回路になってて、こうやって石を取り出すと」
 翔は焼けた指先で器用に石を外した。途端に音楽が鳴り止む。翔が石を元の状態に戻すと、ふたたび先ほどの音楽の続きが聞こえてきた。
「ガイアの動力を必要とする製品にはどんなものにも、回路と力包石が組み込まれている。石の純度によって使えるエネルギーは違うんだけど、大人の腕でひとかかえの力包石があれば家族が生活できる。この石のおかげで僕らの生活は成り立っている」
 電池のようなものなのだろうか。それも素晴らしく使用期間が長く、汎用性の高い。
「どんなものにも?」
「どんなものでもといいたいけど、回路がなければただの石ころだね」
 絵麻は翔が先ほどポケットから出した透明なケースを使って、あの黒いお化けを撃退したのを思い出した。あのケースの中身が、確か緑色の石ではなかっただろうか。
「翔も力包石を使ったんですか?」
「え?」
「さっきの、黒いお化け」
「ああ……見えていたんだね」
 翔はポケットから、絵麻が先ほど見た透明なケースを取りだしてテーブルに置いた。
 絵麻の手のひらにも収まるくらいの丸いケースで、近くで見るとかなり頑丈そうだった。中に綿のような白いものが敷かれ、中央に緑色の小さな石が収まっている。まるで理科実験室のシャーレのようで、回路が組まれているようには見えなかった。
「これは簡易護身具かな。音と光が多少凄いって程度」
「そうなんですか?」
「だから、僕はトゥレラからさっさと逃げ出したでしょう?」
 翔は苦笑いしてみせた。
「トゥレラ……って、さっきの黒いお化けのこと?」
「うん。トゥレラは闇偶人《ダークドール》の種類のひとつで、闇偶人が全部あんなに怖い奴ばかりではないよ。闇偶人や闇傀儡は不和姫《ディスコード》が闇から作り出す下僕で、武装集団の軍隊とは関係なく、力包石や血星石《ブラッドストーン》があるところに無条件で発生する」
 知らない言葉がたくさん出てきて、絵麻は「ちょっと」と遮った。
「ごめんなさい。ディスコードとかブラッドストーンって……?」
「あ、ごめん」
 翔は即座に口を閉ざし、頬に指を当てた。
「自分には当たり前のことを知らない人にわかるように説明するのって案外難しいんだな」
「ごめんなさい」
 しゅんと俯いた絵麻に、翔は慌てて言い添えた。
「気にしないで。そもそも僕が悪いんだし。君に――」
「「翔」」
 何かを言いかけた翔を、男性と女性が同時に制した。翔はごほんと咳払いした。
「とにかく、謝らなくっていいのよ? 力包石は他国の人ならわからない部分はあるだろうし、平和姫と不和姫の物語はおとぎ話とかで聞いたことない? 結構よくある話だから」
 翔たちの服装や話し方は現代と全く違ったところはない。この建物だって、洋風の造りだが絵麻の身近にないだけで現代に存在するだろう。けれど、力包石という不思議な石やトゥレラという黒いお化けが徘徊する焼け跡は自分が知っている現代とはかけ離れている。おとぎ話も聞いたことがない。それなのに他の人たちは平然とそれを当たり前のこととして受け入れている。
「なあ、これって今一気に全部の説明は無理じゃないか?」
 絵麻が何も知らないから、迷惑をかけてしまっている。絵麻はもう一度細い声で「ごめんなさい」と言った。
 男性は僅かに苛立ったように眉を寄せたが、口から出た言葉は意外にも「だいぶ疲れてるみたいだから」という絵麻を気遣うもので、絵麻はびっくりしてしまった。
「そうだね。そろそろ夕方だし、内戦を知らない人だっていうのはわかったから、続きは明日でもいいかな。わかりやすく説明できるように準備しておくよ」
 絵麻は窓のほうに視線を移した。確かに外の景色は薄暗くなりはじめている。
「明日……って」
「出て行ったとしても、ここから別の街に行くバスは本数がないから、今からだと大きい街に着くのは夜のだいぶ遅い時間になるよ? ここは住んでる人数のわりに部屋があるから、絵麻が泊まってもまったく問題ない。多少散らかってると言えば散らかってるけど」
「ここ、誰かのおうちなんですか?」
「平和部隊の隊員寮なんだ」
「ヘイワブタイ?」
「それも通じないか」
 国民を守ることを国から委託された団体、と翔は言った。
「難民保護は立派に平和部隊の職務。問題ないよ」
 少し考えたのだが、絵麻には戻る方法もわからず行くあてもない。この世界が何なのかもまだよくわかっていない。本当に彼らを信用して良いのかも。
 それでも、絵麻は今、とにかく休みたいと思った。だから頷いた。
「部屋、どこが空いてるっけ?」
 翔が女性に尋ねると、彼女は立ち上がって「こっち」と絵麻を促した。彼女について行くと、女性は玄関の、先ほど自分たちがおりてきた階段を上がって右側に折れた。廊下に同じようなドアがいくつかあって、女性は廊下奥から二つ目の扉の前で足を止めた。
「廊下のこっち側は女の子が使ってるの。階段を挟んだ反対側が男性。あたしの部屋はいちばん階段側で、ひとつ空いて隣をリリィが使ってるから。何かあったら声をかけてくれていいからね」
 そう言うと、女性は扉を開けた。
 長方形の簡単な造りの部屋で、マットレスが剥き出しのベッドと、古びた木の机がある。机の上に棚が作り付けになっていて、その隣にこれも古びたチェストが置いてあった。確かに使っていない部屋のようで、からっぽの棚は埃でうっすらと白くなっている。
「トイレや水道は一階だから気をつけて。この下の居間と反対側。あ、シーツと毛布を用意しないと」
 女性は一度部屋を出ようとして、戸口のところで立ち止まった。
「リリィ。持ってきてくれたの?」
 絵麻が振り返ると、リリィが細い腕に毛布とシーツを抱えて立っていた。
「ありがとう。あたしだったら探すところからはじまってたわ」
 リョウが受け取り、マットレスの端に寄せて置いてくれた。
「それじゃ、少し休んで、それからご飯にしましょう。あとで呼びに来るね」
 女性はそう言って出て行こうとしたのだが、リリィは逆に部屋に踏み込んできた。手にしていた筒状のものを絵麻に手渡す。
 見てみるとそれは蓋付きの水筒で、渡された時の振動でちゃぷんという水の音がした。
「あ、それリリィが自分用に作ってたお茶?」
 リリィは口元に拳を当てると、コップを口につけるような仕草をした。
 多分、飲んでと言ってくれているのだろう。そういえば喉が渇いていた。
「……ありがとう」
 リリィは微笑むと、踵を返して出て行った。女性が後を追う。
 絵麻は扉を閉めると鍵をかけ、よろよろとベッドのところまで行った。シーツを広げるという、普段当たり前にしている動作でさえひどく億劫だった。自分が意識しているよりずっと疲れているようだった。
 貸して貰ったシーツは清潔で、毛布からは香水のような独特の香りがしていた。人工的なものだったが、決して嫌な香りではなかった。そんなことを思っているうちに、絵麻はあっという間に眠っていた。
戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 2013 Noda Nohto All rights reserved.
 

このページにしおりを挟む

-Powered by HTML DWARF-