Love&Place------1部2章2

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(――!)
 指先が絵麻の喉にかかる。
「いやあっ!」
 絵麻は悲鳴をあげて女性を突き飛ばした。女性は階段まで飛ばされ、段にぶつかって倒れた。ひどい音がした。
 女性はびっくりしたような顔をしていたが、それに構う余裕は絵麻になかった。絵麻は恐怖でその場に座り込むと、体を縮めてすすり泣いた。
「……ころさないで」
 なぜこんなにもひどくてみっともないことをしているのかはわからなかった。とにかく怖い。首に何かが触れるだけで息苦しさと恐怖が全身に走る。
「何、今の音?」
「リリィ? 絵麻? 大丈夫?!」
 階上でドアが開く音がして、続いて数人が階段を降りてくる足音がした。
「リリィ!」
「どうしたの? 転んだ?」
 知らない男性と女性が、彼らがリリィと呼んだ金髪の女性を助け起こした。リリィは女性の方に何かを訴えていた。手が絵麻の知らない形に動き、時々唇も動くが声はしていなかった。それでも女性には通じているようだった。
「絵麻、どうしたの?」
 翔が絵麻のところに来ていたが、絵麻は彼に構う余裕はなく、しばらくすすり泣いていた。
「何かあった?」
 優しく聞かれても、絵麻は答えることができなかった。
「お願い……わたしをころさないで」
「え?」
 リリィが状況を説明する方が早かったようで「そういうことね」という女性の声が聞こえた。
「翔。その子、首に怪我をしてるんでしょ?」
「うん……」
「痣になって凄く痛そうだったから、冷やそうと思って手を当てたんだけど驚かせてしまったみたいって」
「……冷やす?」
 だから手を当ててくれたのだろうか。手の熱で逆にぬくもってしまうように思うのだが。
「手当てがいるんならあたしが診るよ?」
 さっきよりすぐ近くで、はきはきした女性の声がした。絵麻が伏せていた顔を上げると、女性がすぐ側まで来ていた。
 茶色の髪を顎のあたりで切りそろえていて、襟が広くあいたティーシャツの上にベストのような上着を合わせていた。覗いている日に焼けたような色の肌は絵麻ともリリィとも違っていて、ひどく健康的に見えた。
「ちょっと診せてね」
 女性が無造作に絵麻の顎をつかんだので、絵麻は反射的に声をあげて身を縮めた。意外に強い力だったので驚いたせいもあるが、先ほどから誰かに触れられることが怖くて仕方なかったのだ。女性も驚いたように手を離した。
「えっ、何? そこも痛い?」
 絵麻は首を振った。ごめんなさいと、涙で掠れた何度目かの言葉がもれる。
「なあ。いったん部屋の中に入らないか?」
 リリィの側にいた男性がそこで口を挟んだ。
「玄関先に座りっぱなしで泣いてるんじゃ、いくらこの時期でも体おかしくなるぞ。怪我してるんだろ?」
「立てる?」
 女性は今度は遠慮がちに絵麻の肩に手をかけた。肩に触れられることは怖くなかった。涙でぐしゃぐしゃの頬を手の甲でぬぐう。
 こっちだよ、と翔に招かれたのは左側に伸びている入り口だった。絵麻はその先は廊下だと思っていたのだが、すぐに居室になっていた。大きなソファと背の低いテーブルが置かれた、大人数でくつろげる居間のようだったが、あまり片付けられているとはいえず掛布があちこちにずれ、クッションは何個か潰れていた。背の高い窓にはカーテンがかけられていて、その反対、玄関側の壁には広い間口があってその先の部屋が見えた。食堂兼用の台所になっているようだった。
 女性は絵麻をソファの一角に座らせ、自分も隣に腰をおろした。反対側に翔が座る。ソファの角の部分を隔ててリリィと、もうひとりの男性が座った。
 男性は女性よりは明るい茶色の髪を短く切っていて、線のやわらかい顔立ちの翔とは対照的に男性的な造作をしていた。肩幅も広く、座っている状態でも翔と同じか翔より背が高いのがわかった。無造作に着たシャツとジーンズという出で立ちだった。この人達も翔と同じ、日本語ではない言葉を使っているのだが、絵麻の頭の中で勝手に変換されるのも、絵麻の言うことはきちんと相手に伝わっていることも同じようだった。
「だいぶ痛そうだな」
 男性は絵麻の首を見て、どこか言いにくそうな口ぶりでそう言った。
 絵麻は首を振る。確かにずっとひりひりする痛みは続いているが、我慢できないほどではないし、それにもう息苦しくない。
「だいぶっていうか、かなり痛んでると思うんだけど。触らないから、少しだけ顔を上げて?」
 女性の口調はなだめるように優しかったが、絵麻は首を振った。
「ひとりでちゃんと手当てできます。ここはどこですか? 場所がわかれば、自分のいた場所をひとりで探せるから」
 絵麻以外の四人が困ったように顔を見合わせる。リリィが手の甲を逆の手で叩いて音を出すと、手を開いて絵麻の方に振り、続いて拳に握って女性の方に振った。
 絵麻にはまるでわからない動作だったのだが、女性にはそれで通じたようだった。女性は短く「ああ」といった。
「あなた、文字が読めないんでしょう? 場所を教えても迷ってしまうよ?」
「え。絵麻って字が読めなかったの?!」
 翔が驚いたように声をあげる。
「ごめん。知らなかったんだ。リリィもごめんね。言葉が通じてるから字が読めないとは思わなくて。それがわかっていれば代わってもらったんだけど」
 翔はすまなそうにふたりに頭を下げた。確かに、会話だけしかしていない相手が字が読めるか読めないかはわからなかっただろう。
「あんたは絵麻っていうんだっけ。一体どこの誰なんだ? 字が読めない奴はこのご時世珍しくないけど、そんなちゃんとした身なりで字が読めないってのは珍しいぞ」
 どこの誰かを改めて問われると、返答に詰まってしまう。
「深川結女の妹……」
 口にできたのはそれだけだった。怯えて顔を伏せる。何であたしの名前を得体の知れない相手に出すの、と姉がヒステリックに叫ぶ声が耳元で聞こえるようだった。
「フカガワユメ?」
「それは誰だ?」
 しかし、翔の時と同じで、ここにいる人たちもまた深川結女の名に覚えはまるでない様子だった。
「どっかの貴人(キジン)?」
 キジンという言葉が何を意味するか絵麻はわからなかったので、自分がわかる言葉で絵麻は説明をした。
「芸能人で、マルチタレント。テレビによく出てる」
 絵麻は誰もが知っているであろう人気の番組名をいくつか挙げたのだが、全員が外国語でも聞いたように目を丸くしていた。誰もわからないようだった。
「ここは日本ではないですか?」
「ニホンってどこ」
 そう言われても、日本は日本だ。国の名前だ。だから絵麻はその通り話した。
 四人が何度目かに顔を見合わせる。少しの間の後で翔が口を開いた。
「さっきも言ったけど、この国の名前は『ガイア』。僕たちの世界にニホンという国はないよ」
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