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 唯美から連絡が入ったのは翌日の日が暮れてからだった。
 一時も目が離せない状態で。当分の間帰れそうにないのだという。
 連絡を受けたのは封隼で。彼は咳き込んでから「唯美姉さん、気をつけて」
と言って通信を切った。彼と唯美は姓が違うが、実の姉弟なのだ。
「諜報員もたいへんだね」
 洗濯物をたたみながら絵麻は感想をもらした。
 横で刺繍をしていたリリィがメモ帳に『どんな仕事もそれなりにたいへんだ
よ』と書いてよこした。
 リリィは声を出す事ができないのだ。
 加えて、6歳から16歳までの断片的な記憶を失っている。喉や声帯に異常は
なく、どうやら精神的なものが原因らしいのだが、失った記憶の中にその理由
があるようで、何もできないまま今に至っていた。
 声は出せなくとも、リリィはとても優しい性格の持ち主だ。
 誰もが羨む美貌の少女だが、奢ることは決してない。声が出せないことで卑
屈になる事もない。
 そんな彼女が『NONET』をやっているのは、失くした記憶を取り戻した
いからなのだと言う。どこかにきっかけがあるはずだ、と。
 絵麻は洗濯物をたたみ終わると、共用の物は所定の位置に入れ、個人の物は
分けてテーブルに置いた。自分の物だけ運んでしまおうと、両手に抱えて階段
の方に行く。
 と、階段には先客がいた。
 僅かに本来の黒さを取り戻しはじめた、でも質の悪い灰色の髪をした小柄な
少年。封隼だ。
 彼は手すりに寄りかかるようにして、階段に膝をついていた。明らかに様子
がおかしい。
「封隼?」
「絵麻……?」
 振り返った彼の目は熱っぽくうるんでいて。呼んだ名前の後に激しい咳が続
いた。
「どうしたの?! 風邪?!」
 そういえば、彼はここ何日かずっと咳き込んでいた。
「ああ……寝れば治」
 言いかけた言葉の後にもまた、咳込みが重なる。
 起こそうと手をかけた肩が熱い。
「リリィ! リョウ! ちょっと来て!!」
 異常を悟った絵麻は大声で階下にいるリリィと、医者であるリョウを呼んだ。
 ほどなくしてリリィとリョウ、それに声を聞きつけた翔が来てくれて。4人
で封隼を1階の医務室に運び込んだ。
「大丈夫なのか?」
「風邪だって上官が言ってた……寝てれば治るって」
 短い言葉の間にも、封隼は何度も咳き込んだ。
 感情を出さない彼にしては珍しく、表情が歪んでいる。
「風邪って……アンタ!」
 診察していたリョウが声を荒げる。
 風邪という言葉にそぐわない剣幕に、絵麻はびくりと体を強張らせた。
「風邪には気をつけなさいって言ったでしょ?! 肺炎を起こしてるじゃない」
「肺炎?!」
 そういえば、咳き込んでいて苦しそうだ。熱があるのかもしれない。
「あんたは肺が弱ってるんだから、気をつけなさいって言ったのに! 目を離
すとこれなんだから……」
「肺が弱ってる?」
 絵麻と翔が異口同音に言う。リリィも不安そうな目をリョウに向けた。
「封隼は……」
「リョウ」
 封隼がベッドの中から手を出し、リョウの手首をつかむ。
「言わないでくれ……頼むから」
 そう言って咳き込んだ彼の背を、リリィがさすった。
 リョウはしばらくその様子を見ていたのだが、静かに言った。
「ごめんね。医者として、あんただけに任せられないわ」
「リョウ!」
「封隼は左の肺が普通の人の半分くらいしか機能してないのよ」
「え?!」
 驚いた絵麻と対照的に、翔は冷静だった。
「封隼が隠したがったところを見ると、原因はあの時の怪我か」
「そう。元々不摂生だったって部分も大きいんだけど、直接の原因はそれ」
「……姉さんには絶対黙ってろよ」
 封隼が鋭い視線で4人をにらむ。
 封隼は唯美に、ナイフで胸を刺されたことがある。命を取りとめたのが奇跡
といえる重傷だった。
「治ったと思ってた」
「治しきれなかったのよ……」
 リョウが寂しげに言う。
「とりあえず、抗生剤を点滴で入れるから、しばらく休んでなさい」
「……どのくらい?」
「1週間は絶対安静」
「そんなにたったら、唯美姉さんが……帰って……」
 言葉の間にも激しく咳き込む。流石にリョウが「これ以上しゃべるな」とド
クターストップをかけた。
「唯美にはただの風邪だって言おうよ? もっと悪くなったらたいへんだ
よ?」
「そうだよ。肺炎は死ぬ事だってあるんだから」
 リリィは言葉の代わりに、封隼の熱くなった額を撫ぜた。
 ほどなくしてリョウが点滴を持ってくる。
「それ……薬?」
「そうよ?」
 腕に針がつながれそうになった時、封隼はリョウの手を強く振り払った。
「きゃっ」
 針を持った手が回り、刺されそうになった翔が慌てて避ける。
「何するのよ封隼!!」
「薬……やだ……」
「何言ってるの? これ使わなきゃ炎症治まらないわよ?!」
「そうだよ。リョウのヒールは病気治せないんだから」
「あれ、そうなの?」
 絵麻はぱちんと目を見張る。初めて聞いた。
「そうなの。病気って治せないのよ」
「でも、薬は……」
 か細い声でまだ抵抗する封隼に、リョウがあきれたように言った。
「唯美にわかってもいいの? あんたが黙っててって言うから黙ってるんだけ
ど?」
「薬……入れられると動けないんだ」
「え?」
 封隼は咳き込みながら、途切れ途切れに続けた。
「薬だけは……どんな、薬でも……体に入ったら……能力が……」
「能力が使えなくなるの?」
 翔の問いかけに、封隼がこくりと頷く。
 封隼と唯美は東部の古い一族の血を引いている。瞬間移動はパワーストーン
ではなく、この一族の力だ。
 唯美の瞬間移動能力には何度も助けられているのだが、こんな弱点があった
とは。
「今、唯美……姉さんいない、から。何かあったら、おれが……」
 封隼は何かがあった時のことを考えていたのだ。
「……」
 黙ってしまった4人だったが、リリィがそっと封隼の枕元に膝を着くと、額
に白い手をあてて覗き込んだ。
 唇が動くが、声にはならない。
 この場にいる面々は絵麻以外はリリィの唇の動きを読むことができる。絵麻
は翔の袖をひいて、小声でリリィが何を言っているのか尋ねた。
「『貴方は自分の身体の事だけ考えていればいいから。大丈夫だから手当てを
受けて欲しい』って」
 翔も小声で言う。
 リリィはしばらく封隼を説得していたが、やがて封隼は「わかった」と短く
言って、リョウに点滴の針を刺してもらった。
「終わった頃に抜きに来るから、それまで眠ってなさい。勝手に抜いたらダメ
だからね?」
 釘をさしたリョウに、リリィが何かを告げる。
「見ててくれるの? でも、眠らなくて大丈夫?」
 リリィはこくりと、形のいい顎を上下させた。
「それじゃ、お願い」
 リョウに従って、絵麻と翔も部屋を出た。
「リリィって、優しいね」
「本当に」
「リリィみたいになりたいな」
 ぽつりともらした絵麻を見て、翔は真顔で付け足した。
「そんな。絵麻は絵麻のままでいいよ」
「え?」
 意外な言葉に、絵麻は立ち止まって翔を見上げた。
「絵麻は絵麻だからいいんだよ」
「……翔?」
「2人ともどうしたの?」
 かなり先を歩いていたリョウが振り返って呼ぶ。
 その声に、翔はぱたぱたと廊下を走って行った。
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