戻る | 進む | 目次

「……」
 朝の光の中で、深川絵麻は目を覚ました。
 ぬくもりがない。どこにいっちゃったんだろう?
「らい……」
 最愛の人の名前を呼びかけて、絵麻は自分がその人の事を何一つ知らないこ
とに気づいた。
 ライガなんて名前の知り合いは絵麻にはいない。
「……寝ぼけたんだ」
 髪をくしゃくしゃっとすると、絵麻はベッドからおりた。
 今日は退院するリョウを迎えに行く約束になっているのだ。

「荷物、これだけ? 忘れ物してない?」
「うん。大丈夫だと思う」
 壊れ物をタオルで包みながら確認していた絵麻に、サイドボードの引き出し
を見ていたリョウ=ブライスが応じる。
 短めの茶髪と、少し変わった紫の瞳。いつもつけているスカーレットのピア
スは、今は外されていた。
「どうせ勤務先なんだし。忘れ物が見つかったら昼休みにでも取りに来るよ」
 彼女が自分の勤務先である病院に入院するハメになってから1ヶ月ほどが
経っている。
 1ヶ月で退院できるほどに回復したのは、医学的にはありえないらしいが、
リョウは自分で診断書を書いて周囲を納得させてしまった。
 ちなみに、もう1人の入院患者だった秋本信也の方は今日から仕事に出てい
る。
「じゃ、もう行く?」
「ええ」
「今日は退院祝い。美味しいものいっぱい作るからね」
「何が有難いって絵麻のご飯よね。病院食ってツラいわ」
 紙袋を2人で1つずつ持って歩き出す。
 そろそろ天頂にかかりはじめた日差しが眩しい。この時間だから、通りに人
はほとんどいなかった。
 風に吹かれる髪を見て、ふとリョウが言う。
「絵麻、その髪の長さってうっとおしくない?」
「?」
 絵麻は紙袋を片手で抱えると、自分の肩までの長さの黒髪をつまんだ。
「うーん。あんまり感じないんだけど。リョウが見ててうっとおしい?」
「別にうっとおしくなければいいのよ。ただ、絵麻くらいの長さって珍しいか
らちょっと聞いてみただけ」
「そういえば」
 リリィや唯美は背中を覆うほど長い。カノンもそうだった。リョウやアテネ、
メアリーといった面々は短いが、これは職業柄だろう。
 絵麻はこの二者の間くらいの長さなのだ。
 言われて少し気になって、絵麻は自分の黒髪を何度か引っ張ってみる。
 と、その時絵麻の耳元で声がした。

『エマ……愛してる』

 心が震えるくらい、願いがこめられた男性の声。
「?」
『愛してる……だから、君だけは生きて』
 目の前にフラッシュバックした、長身の青年の面影。
 黒髪で長身。全身に傷を負い、口元からも血が流れている。
「……だめっ! いっちゃ嫌だ!!」
「絵麻?!」
 急に立ち止まって叫びだした絵麻の肩を、慌ててリョウが抑える。
「いかないで……いかないで!」
「絵麻、どうしたの?!」
 リョウは少し手荒に肩をゆすり、絵麻の視点を合わせようとする。
「……リョウ?」
「どうしたの? 何か不安なことでもあった?」
「今、血だらけの男の人が……」
 気づくと、額から汗が噴き出していた。
「そんな人、いないわよ?」
 リョウが紙袋を地面に置き、ひたひたと絵麻の頬を叩く。
「ほら、深呼吸。それからよく周りを見てみて」
 言われた通りに絵麻は深呼吸してから周りを見た。
 正午の光に彩られた世界がそこに佇んでいた。
「……あれ?」
戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 1997-2007 Noda Nohto All rights reserved.
 
このページにしおりを挟む
-Powered by HTML DWARF-