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 キーン、コーン、カーン……

 絵麻はチャイムの音で目を覚ました。
(あれ……?)
 ガタガタいう椅子の音。「礼!」という学級委員の掛け声。
(教室?)
 絵麻が顔を上げると、黒板には今日の6時間目の授業である古文の解釈が書
かれていた。ノートはその半分も進んでいない。
 どうやら、途中からうつらうつらしていたらしい。
(いけない)
 絵麻は慌てて黒板の内容をノートに映しはじめた。
(えっと、『あやしかり』の現代語訳は『田舎びている』で、その後の『を』
は接続助詞だから赤線……)
 筆箱をあけて、赤のカラーペンを取り出そうとする。筆箱から出したところ
で、指がすべった。
「あっ」
 床に落ちたカラーペンが、コロコロ転がって誰かの上靴にあたる。
「ごめん……」
 上靴の主はカラーペンを拾うと、絵麻に差し出した。
「はい。深川結女の妹サン」
「……」
 見上げると、ショートカットをプラチナに染めた少女が、意地悪く微笑んで
いる。
「石井さん……」
「みーちゃった、みーちゃった。深川さん居眠りしてたよね」
「!」
「芸能人の妹がそんなんでいいのかな?」
 いつの間にか、絵麻の席は石井葉子の取り巻きたちに囲まれていた。
「深川さん、いいの? お姉さんは今頃東大で猛勉強中でしょ?」
「眠ったりしていいのかな?」
「き……昨日遅くまで起きてたから。だから……」
 慌てて昨夜の記憶を巻き戻す。
 確か、結女がバラエティー番組の収録に出ていて昨夜は遅かったのだ。絵麻
は翌日の学校のために日付が変わる前に寝たのだが、夜中に帰って来た結女が
夜食を作れと絵麻をたたき起こしたのである。
「遅くまで遊んでたの?」
 にやっと、葉子が意地悪く唇を歪める。
「お姉さんは勉強してるのに、最ッ低だね」
「ちが……」
「そーだよそーだよ。深川さんは最低」
「夜中まで勉強してたっていうんならわかるけどさ。でも、竹島の生徒でしょ?
夜中まで勉強する根性があったらもっといー高校入ってるよね」
「アンタ、バカだよ。お姉さんはあんなに偉いのに」
「お姉さんの評判に泥ぬっちゃってるよね」
「最低だよね」
「最低だよね」
 いつの間にか、クラス中が自分のことを見つめている。
 意地の悪い視線がつきささる。
 薄っぺらい笑い声が、かさかさと耳にまとわりついて離れない。
「深川ー。オマエ最低だよ」
「だよな。最低だよな。最低人間だよな?」
「授業中に寝てんじゃねぇよ。芸能人の妹のくせに」
「授業くらいマジメに受けろよ。いい思いしてンだろ?」
「おばあさんの葬式の時も寝てたらしいなー」
「えー? 結女ちゃんあんなに泣いてたのに。やっぱ最低だよぉ」
「サ・イ・テ・イ、サ・イ・テ・イ。ほら、みんなもやれよ」
 男子の一人が手拍子ではやしたてる。わあっという歓声と一緒に、たちまち
クラス中に手拍子の渦が広がった。
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「……」
 絵麻はぎゅっと手を握りしめた。
 耳をふさいでしまいたかった。
 今すぐ教室を飛び出して、誰もいないところで思い切り泣きたかった。
 けれど。
 笑わないといけないから。
 姉の評判を落とさないように。わたしは、笑っていなければいけないから。
 絵麻は懸命に笑い顔を作った。
 途端に、どっとクラス中がわきあがる。
「あっはっは。深川、笑ってんぞ」
「それで芸能界に入れるとでも思ってるのかー?」
「結女ちゃんの妹の名前が泣いてるぞー? 愚妹ちゃん」
「ほらほら、みんな続けてー?」
 笑顔で、葉子がクラスメイト達を煽る。
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
「サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ。サ・イ・テ・イ」
 ほとんど学級崩壊のノリで、生徒達はわめきたてる。
(やめて……やめてよ)
 わたしが何をしたの?
 握った手を小さく震わせながら、絵麻は声を出すことができない。
(お願い……早く先生来て。学校、終わって……!)
 絵麻はすがる思いで視線をちらりと廊下に向けた。
 担任の教師が、隣のクラスの担任の教師と話している。
「先生、いいんですか? G組騒いでますよ?」
「ああ、いいんですいいんです。深川のことでしょうから」
「深川ですか」
「あの子、テレビを見てると芸能人の姉がついてると思って舞い上がってるフ
シがありますしね。少しは灸を据えたほうがいいんです」
「そうですね。いくら姉が東大っていっても、深川は成績悪いですしねぇ」
「生徒達にとってもちょうどいいストレス発散材料ですし。しばらくこのまま
放っておきますよ。私の帰りは遅くなるんですけど」
 教師は薄い笑みを唇に浮かべた。
「あの子の担任になったのが運のツキ、ですか。それじゃ失礼してお先に」
「まあ、芸能人の姉を見れるからいいんですけどね。お疲れさまでした、先生」
「……!」
 絵麻は思わず瞳を閉じた。
 世界から自分を遮断するように。
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