戻る | 進む | 目次

  翌日。
  絵麻はリリィに買い出しをつきあってもらって、少し早い夕食作りにとりか
かっていた。
  今夜、アテネを奪還して『NONET』の仕事も片をつける。メンバーは前
回のメンバーに加えて、唯美が同行することになった。トラップが多いから、
彼女の瞬間移動能力でいっきに決着をつけようと翔が提案したのである。
「封隼も起きて歩けるようになったし、いいよ。シエルの妹っていうのも会っ
てみたいし」
  唯美も二つ返事で引き受けた。
  絵麻は足手まといになるから(翔は危ないからと言った)外れたほうがいい
という意見も出たのだが、これは絵麻が聞き入れなかった。
  早くアテネに会って、貴族の人形という身分から解放してあげたかったのだ。
  シエル以外でアテネが名前を知っているのが絵麻だけだというのが最終的に
ものを言って、絵麻も今夜ウェイクフィールド邸に侵入するメンバーに入るこ
とができた。
『今日はたくさん作るのね』
  リリィがカウンターに座り、メモ帳を差し出す。
「うん。今日はアテネちゃんが来るでしょ?  だから」
  絵麻はホワイトソースの鍋を火からおろしながら言った。
  グラタン用の皿を出し、手早くバターをぬっていく。
「♪」
『あら、ご機嫌ね』
  リリィが微笑んでメモ帳に書きつけた。
「ふふ。だって嬉しいんだもん」
「・?」
「本当のことがわかるっていいね」
  皿にグラタンを盛りながら、絵麻は続けた。
「本当のことがわかったから、シエルがあんなにお金に執着してた理由もわかっ
たでしょ。妹がいることも、その子を連れて来ることもできるし。やっぱ隠し
事ってよくないね。人間本当のことだけ、正直に生きなきゃ」
  言っているうちに、絵麻はリリィの表情がだんだんと曇っていくことに気が
ついた。
「リリィ?  わたし、何か悪いこと言った?」
『そういうわけじゃないのよ』
  リリィはそこまで書いて、先に進むかを迷ったようだった。
  彼女はひと呼吸おいたあとで、その文章の後に小さく書き付けた。
『真実を知るのは、素晴らしいことばかりだと思う?』
「リリィ?」
  綴られた言葉の意味が絵麻にはわからない。
  のぞきこんだリリィの表情は、どこか憂いを帯びていて。
「どうしたの?  わたし、何か悪いこと」
『違う』
  その反応があまりにも早かったので、絵麻はびくっと肩をすくめた。
  リリィは左手をそっと絵麻の頬にさしだして。
『私が記憶喪失なのは知っているでしょう?』
「うん」
  リリィは過去の記憶を断片的に失っている。
  声が出せないのは、そのなくなった記憶の中に原因があるらしい。肉体的に
はなんの損傷もないとリョウは診断している。
『声がでなくてもみんながあわせてくれるから、全然不自由はしてないわ。で
もね、やっぱりみんなに頼り続けるのもいけないなって思って、毎晩眠る前に
思い出そうとするの。
 だけど、心のどこかが拒否しているみたいで、体が震える。ものすごく怖く
なる』
「そんな。だったら、無理して思い出しちゃダメだよ」
  絵麻はミトンをはめた手をリリィにのばした。
『怖くて思い出せない。子供みたいな理由でしょ』
  リリィはちょっと皮肉な笑みを絵麻に投げかけた。
『絵麻、私も嘘つきなのよ。リリィは本当の名前じゃないかもしれない。ここ
に来る前に何をやっていた人間かも定かじゃない。武装集団の悪党だったとし
てもおかしくないわ。
 私は“本当”にフタをして、偽りだらけで生きている』
  最後の筆跡が震える。
  氷の美女の面影が、今日は雪の結晶のようにもろく儚い。
「そんなこと言わないで」
  絵麻はミトンの手で、リリィの左手をぎゅっと握りしめた。
「リリィはリリィだよ?  すっごく綺麗で、いつも誰にでも優しくて。本当の
ことが何もなくったって、それじゃダメなの?  何もわからないわたしにいつ
も優しくしてくれたのは、翔とリリィなんだよ?」
  リリィが消えてしまいそうな気がして、絵麻は必死に訴える。
「だから、そんなこと言わないで……」
『ごめんね』
  絵麻の手をゆっくり外してから、リリィがメモ帳にペンを走らせる。
『私は本当のことがわからないから、本当のことをみんなに伝えられる唯美や
シエルが少しうらやましくて』
「リリィの“本当”だってすぐにわかるよ」
  絵麻は勢いづけるように言った。
「きっと、どこかのお嬢様だと思うな。貴族……はちょっとヤだけど、それに
近いくらいのお嬢様だよ。いつかお迎えとか来たりして」
  ホワイトソースのついたお玉を片手に、絵麻は思いっきり元気にまくしたて
る。
「その時は招待してね。ごちそういっぱい食べさせてね。ね?」
  リリィがゆっくりと微笑む。
『貴女が作る以上の御馳走はないと思うな』
  そう綴った後で、リリィの唇が『ありがとう』という形に動いたのを、絵麻
は確かに読めたと思った。
戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 1997-2007 Noda Nohto All rights reserved.
 
このページにしおりを挟む
-Powered by HTML DWARF-