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  PCの煉瓦造りの建物にそそぐ光が、青から橙へと変化する。
  時刻は午後5時。
  建物に一日の終わりを告げるチャイムが響いて、そのあとからわきあがるよ
うに仕事を終えた人々のざわめきが聞こえてくる。
「それじゃ、お先に」
「お疲れさまでした」
「主任。明日は、何の実験が予定されてますか?」
「自衛団と合同で先々月に開発した兵器の実戦練習だ。汚れてもいいような服
装でこいよ」
  そんな同僚たちのざわめきを聞くともなしに聞きながら、翔はどこかむっと
したような表情で、机の上に散らかした書類を無造作に鞄へと放り込んでいた。
  今日一日、悩みに悩みつくしたのだが、結論が出せなかったのだ。
  こんなに考え事をしたのは、修士号試験を受けた時以来かもしれない。
「僕って、けっこう薄っぺらな性格だったのかな」
  書類をしまい終えると、白衣とジャケットとを着替えて科学開発課の部屋か
ら出ようとする。
  ふっと振り返ると、部屋にはもう誰一人として人は残っていなくて。片付け
忘れられた試験管が1本、誰かの机の上で物悲しげにオレンジの光をはじいて
いた。
「……」
  そのまま部屋を出ると、後ろ手に扉を閉める。廊下をしばらく歩いて階段を
降り、また少し歩くと、ようやく外の風を感じられる場所に出た。
  1日中建物の中に密閉されていた身には、外の風がひどく優しい。
  何人もの家路につく人の中にまぎれて、翔も第8寮へと歩きだす。
  途中まではちらほらと人がいたのだが、市街地を抜けて南の森へ続く道にた
どりついた頃には視界には人は誰一人もいなくなっていた。
  心なしか歩調が遅くなる。地面しか目に入らなくなって……。
(どうしたらいいんだろう)
  答えがみつからない。
  この問題は、物理の公式みたいに簡単じゃない。
  ……人の生命がかかってるんだから当然か。
『あたし達の考えを押しつける話じゃない。それが傷つくことでも』
『廃人になってくのを見守られる優しさなんていらないかもしれないだろ?』
  誰も傷つかない世界なんて、理想神話でしかないことはわかってる。
  だったら、もう苦しめないで、一息に……。
「翔!」
  呼び声が耳に入り、翔は顔を上げた。
  いつの間にか第8寮が見える位置まで来ていて。
  建物の周りに生える木の幹に手をついて、1人の女の子が手を振っているの
が見て取れた。
  小柄な体に、淡い色のブレザーとスカート。左サイドだけをピンでとめた肩
までの黒髪が、夕方の風になびいている。
「あれ……絵麻?」
  あわてて駆け寄る。
「何してるの?!  外になんか出て来て」
「いけなかった?」
  彼女は申し訳なさそうに肩を縮めた。
「もうみんな帰って来て、夕ごはんもできたのに翔だけ帰って来ないから、
ちょっと見にきたんだけど……ごめんね」
  自分よりだいぶ小さな体を見下ろすと、絵麻はまるで小動物のようにおびえ
ていた。
「いや、怒ったわけじゃないから。体のほうは?」
「大丈夫だよ。少し手が震えたけど、ごはん作れたし、お皿も洗えたし」
  絵麻は最初は翔と目を合わせていたのだが、その視線が次第にずれはじめる。
  翔ではなく、翔の後ろにあるものを見ているようだった。
  確か後ろには何もなかったはずだが……。
「?  何を見てるの?」
  またヘンになったんじゃないかと不安になった翔が聞くと、絵麻は澄んだま
なざしで言った。
「空だよ」
「空?」
「すっごくきれい。こんなにきれいな夕焼け、わたしはじめてみた」
  翔が振り返ってみると、そこでは空をキャンパスに、茜色と群青とが見事な
夕映えを織り成していた。
  太陽が半分ほど東の森に沈み、逆に西の森からは淡い青の黄昏月が顔を出し
はじめている。
 見事なまでの陰影が映し出されていた。
  下を向いていたから、こんな綺麗な風景に気がつかなかった。
「ホントにきれい。ここは月が青いんだね」
「? 絵麻がいた場所って、青い球体(ブルースフイア)はないの?」
「ブルースフィアって月のこと? 月は黄色いよ。惑星がブルーなの」
「へえ……」
「いけない。ごはんが冷めちゃう」
  絵麻ははっとしたように視線を空から寮に戻した。
「あ」
「今日はね、たけのことポテトを肉巻きにして揚げてみたの。揚げ物は冷める
と美味しくなくなるから」
  絵麻はそういうと、あわてたように寮の戸口へと走って行った。
  その後ろ姿を見送ってから、翔はそっと口元に焼けた手をあてた。
「バカみたい……」
  あんなに頑張っている女の子を、一瞬で殺そうと思っただなんて。
  別の世界に投げ出されて、どれだけ不安なんだろう?
  怖い経験をしたことは確実なのに……それでも頑張って、食事を作ってくれ
る。
  そんな子を、殺そうとしたなんて。
  『殺さない』って、自分は約束したのに。
「翔?  こないの?」
「あ……今からいく」
  視界の先で、絵麻が笑っている。
  翔は自分がちゃんと前を向いて歩けるようになっていることに気づき、微笑
した。
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