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「♪」
  絵麻は小さくハミングしながら洗濯物をたたんでいた。
「機嫌いいのな」
  リビングで信也を相手に対局していた哉人が言う。
「これが終わったら夕ごはんの買い物に行くの」
「この前まで買い物なんか大嫌いって顔していたのに」
「人間、いつまでも嫌がってないよ」
  絵麻は最後のシャツをたたみ終えると、対局ボードをのぞき込んだ。
  反対側では翔が同じようにしている。
  絵麻はチェスのルールを知らないが、信也の側にある白い駒が少ないので、
彼が負けているのはわかった。
「チェック」
「え?!」
「56手。弱すぎんだよ。シエルよりマシだけど」
「少しは手加減しろよな」
「誰がいちばん強いの?」
  駒を直している2人に絵麻は聞いてみた。
「よく遊んでるけど」
「誰だろうな……翔か哉人だと思うけど」
「翔って強いの?」
  哉人が遊びに強いのは、前にシエルから聞いて知っていた。
「だって、コレ頭脳ゲームだもん。それをわかってない下手の横好きが1人い
るけどな」
「それって……」
「俺もたいがい下手だけど、シエルには勝てるし」
「ね、信也」
  片付け終えて立ち上がりかけた信也を、絵麻は引き留めた。
「何?」
「封隼、本当に引き渡しちゃうの?」
「そうなるな」
「あんなに痩せてるのに?  強制労働させられちゃうのに?」
「……」
  信也は座り直すと、絵麻の方を向いた。
「あいつに協調性が少しでもあるんなら考えるけど、歩み寄る姿勢がないから、
俺はもう何も言えないな」
「でも、スープ食べたいって言ってくれたよ?」
「それと協調性はあんまり関係ないだろ」
「そうだけど」
「それに無愛想だし。もーちょっと愛想があれば仲良くしても構わないけどさ」
「それ、哉人が言えること?」
「よせって」
  チェス盤をはさんで睨み合いになった翔と哉人を、信也が止めた。
「助けてやりたいけど、状況が状況だ。俺でもリョウでも誰でも、唯美をおさ
えてやれるんならいい。けど、あいつ傷ついてる」
「そうだね。唯美が落ち着いたらMrに頼んで迎えに行ったっていいんだから」
「だけど……」
  翔はなだめるように言ってくれたのだが、絵麻は首を振った。
  上手く言えないが、それではだめだと思ったのだ。
  ふいに信也が話題を変える。
「スープ頼んだって本当?」
「うん。翔だって聞いてたよね?」
「だったら、美味しいの作って少しはあの2人の間を和らげてくれよ」
  『2人』というのが唯美と封隼を指しているのは、容易に想像できた。
「うん」
  だから、絵麻は頷いた。
「ただいま。チェスやってたの?」
  その時、シエルが帰って来た。
「おかえりなさい」
  絵麻の声に、一瞬眩しいものを見たときのように目を細めて。
「そうだ。これ来てたぞ」
  たすきがけにしていたカバンの中から、1通の封書を取り出した。
「誰宛て?」
「翔」
  テーブルごしに、封書をぽんと投げてよこす。
「ありがと」
「手紙か?」
「みたいだね……」
  翔は白い封筒をしばらく見つめていたのだが、焼けた指先は封書を破いた。
(え?)
  封書がバラバラの紙吹雪に変わるまでにはそう時間はかからなかった。
「なんで破いちゃったの?」
「ああ……ダイレクトメールだったから」
  抑揚のない声で言うと、翔はごみ箱を取ってくると言ってソファから離れた。
  そっと、ばらばらになった紙片をのぞきこんでみる。
  絵麻は上手く読み取れなかったのだが、そこに『学会』という単語が記載さ
れていたのがわかった。
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