戻る | 進む | 目次

 アテネの体が落ちていく。
 シエルは、助ける事ができない。
 2人は永遠の別れを覚悟していた。
 が、落ちて行くアテネの手を、誰かの手がつかんだ。
「……っ」
「哉人?!」
「……案外重いな」
 腕が抜けそうな重みに、哉人は顔を歪めた。
 哉人が腹ばいの状態で、アテネの手をつかんでいた。
 とっさに滑りこんだのだろう。むき出しの腕にいくつもの傷が走り、血が
細く流れていた。
「アテネ、暴れるなよ? 暴れたら落ちるぞ」
「哉人……」
「シエル、手、貸してくれ」
「けど、オレの手じゃ」
 転んだまま呆けたように言うシエルを、哉人は怒鳴りつけた。
「体おさえてくれって言ってんだよ! それなら片手でできるだろ。
 妹、落ちていいのか?!」
「いいわけないだろ?!」
「だったら早くしろ!」
 シエルは起き上がると、片手で、哉人が引きずられないように押さえつ
けた。
「今引き上げるから……動くなよ」
 哉人は言って、そろそろと体を起こし始めた。
 その時、腹ばいになったことで崖の下になっていたチョーカーが、突き
だした岩に引っかかった。
「あ」
 それは哉人の母からの、最初で最後の誕生日プレゼントだった。
 ぼろぼろに錆びた、銀色の十字架のチョーカー。
 哉人の母親は、貴族に暴行されて哉人を孕んだ。彼女は子供を産む事に
必死で抵抗した。しかし、月が満ちて子供は生まれた。自分を弄んだ男と
同じ、蒼い瞳の男の子。
 愛せるわけがなかった。
 けれど、哉人は母親が好きだった。殴られても虐められても、自分を好
きになって欲しいと思っていた。
 その母は哉人が10歳の誕生日を迎える前に、あっさりと死んだ。最後ま
で哉人をいとおしむことなく。
 けど、本当はそうではなくて。母は哉人を愛してくれていた。ただ、上
手く表現できなかったのだ。哉人も上手く受け取れなかったのだ。
 やっと受け取れたもの。それがこのチョーカーだった。
 このまま体を起こせば、切れて落ちてしまうだろう。
 そうなれば、もう取り戻せない。
「哉人、何やって」
「……」
 その時、シエルとアテネは、哉人が迷っている理由に気づいた。
「哉人くん、手を離して」
「アテネ!」
「いいよ。だって、チョーカーが切れちゃう」
「そんなんよりお前の命のが大事だろっ!」
「でも、哉人くんのママがくれたものだよ? 大事なものだよ?」
「……」
 哉人は唇を噛んだ。
 つかんでいるアテネを見つめた。
 一瞬でも迷った自分は、救いようのない馬鹿だと思った。
 哉人は目を閉じた。
 そして、ありったけの力でアテネを引き上げた。
 首の後ろで、チョーカーが張り詰めて震え、ぷつりと切れる音がした。
 あたたかな感覚が、胸から落ちていくのがわかった。

戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 1997-2007 Noda Nohto All rights reserved.
 
このページにしおりを挟む
-Powered by HTML DWARF-