君と出会う
君と出会う
頭が良いと評される魚崎明水だが、例にもれず、自身の子供の頃のことはあまり覚えていない。
小さな頃は電車が大好きで駅に行くたびはしゃぎ、どんな電車を見ても「シンカンセン」と言っていたと言われても、本人はまったく記憶にない。両親に手を引かれて階段を上がった時のわくわくする気持ちなら多少は覚えているが。
それとは逆にしっかり覚えていることもあって、例えば従妹の魚崎優桜と初めて会った日のことがそうだ。明水は小学校三年生で、この日は家の中にいても木枯らしの音が聞こえるような寒い日だった。
野球クラブの練習もなく、夕飯にはまだ早くてテレビもよくわからないドラマの再放送ばかり。明水は時間を持て余し、自宅のこたつに転がっていた。宿題の学習帳を開きっぱなしにして。日本人なら逆らいがたい温かさの魔力にうとうとしていたのだが、ふっと気づくと母が誰かと喋っている声がした。
来客だろうか。だとしたら、こたつの上を片付けなきゃ。
そう思ったが、動きたくない気持ちが勝った。明水はしばらく寝転んだまま母の声を聞いていたのだが、そうするうちに母の相手は来客ではなく電話なのだと気づいた。
「そう、女の子なのね。女の子……あらら、そんなに重いの? 結女さんたいへんだったでしょう。ええ、すぐに行きます。新生児室は面会時間が終わっちゃうの早いのかしら。え、お母さんと同じ部屋だから大丈夫? 抱っこもできる? 嬉しいわあ。家に明水がいるから、連れて行きますね。何か持って行く物はありますか?」
そこから二言三言会話をして、電話は切れたようだった。母が居間に顔を覗かせ、だらしなく寝ている明水を見るとさっきまで華やいでいた声を険しくした。
「明水。そんなところで寝てると風邪を引くわよ。寝るならちゃんと部屋で……って、寝ちゃ駄目ね。今から病院に行きますよ」
「びょういん?」
明水は目を擦った。
「誰か怪我したの?」
「あら、違うのよ」
母は相好を崩した。
「あのね、お祖父ちゃんが昨日から病院に行ってたでしょう? 隆敏おじちゃんと結女おばちゃんに赤ちゃんが生まれたの。明水のいとこになるわね」
隆敏、というのはおじ――父の弟の名前だ。独身の頃はよく明水たち兄弟の野球の相手をしてくれた。明水が小学校に上がった年に、とてもきれいなお嫁さんをもらった。あんな高嶺の花をよく射止めたよなと常々明水の父が言っているので、明水は「高嶺の花」が美人を指す言葉だと覚えた。
「いとこ」
まだ覚め切らない頭で、明水は聞いたまま繰り返した。
「そう。従妹……女の子ですって」
その時母の声が沈んだ意味に、まだ子供だった明水は気づかなかった。あろうことかこう続けた。
「女の子かぁ。つまんないの」
「え?」
「だって、女の子はすぐ泣くし」
「あのねぇ」
母は呆れたように嘆息した。
「今から病院に会いに行くわよ」
「えー?」
明水は思わず窓の外を見た。木枯らしが吹き荒れている。温いこたつから離れたくない。
そんな明水の不満を母は「こどもは言うことききなさい」の一言で華麗に一蹴し、早く早くと明水をこたつから追い立てた。しかし、明水の外出の支度と言えば帽子をかぶってコートを着るだけであり、母はこれから化粧をする。結局、寒い玄関で母を待つことになり、良い子の明水もさすがに膨れた。
赤ちゃんって、動物園の猿みたいに真っ赤でしわくちゃで、すぐにぎゃーぎゃー泣くんじゃなかったっけ? 大きくなっても女の子じゃやっぱりすぐ泣くし、野球もできないんだよね。
こんなことを病院に行く道すがらずっと考えていた。
ところが、赤ん坊は確かに赤い顔をしていたが、明水が考えたような猿のような顔ではなかった。泣いていなかったし、髪もふさふさしていた。叔母と同じピンク色のテープをちっちゃな手首に巻いて、それよりも淡いピンク色の産着を着ていた。叔母の病室も冷たい薬ではなく、どこか懐かしいような甘い匂いがしていた。
「かわいい。新生児って明水の時以来だから抱くのに緊張しちゃうわ。ほら、明水も」
母にうながされて、おそるおそる抱き取ってみた。
寒い外を歩いてきたばかりの明水には、初めて抱いた赤ん坊の体はとても温かかった。
体を揺らされて、赤子はほんの少しだけ小さな顔をくしゃっとさせたが、明水の腕の中に落ち着くとそれはすぐに収まった。小さく口が動いて欠伸をもらす。ただそれだけの仕草が、とても可愛らしかった。
「こんにちは。明水おにいちゃんですよ」
明水の後ろから、被さるようにして覗き込んでいた母がそんなことを言うのがちょっと照れくさかった。おにいちゃんと呼ばれたのは、思えばこれが初めてだった。
「明水くん。仲良くしてあげてね」
ベッドの上の叔母が、そう言って微笑んだ。
母と祖父は、赤ん坊は大きく生まれたと言った。後から聞いたら3300グラム台だったそうだから、新生児としては確かに大きい。
けれど、明水にとって、初めて抱き上げた優桜はとても小さかったのだ。
その時に思ったのだ――この小さな子が壊れてしまうことがないように、僕がちゃんと守ってあげようと。
その気持ちは十六年以上が経った今も変わらず続いている。
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