Love&Place------序章「過ちへと踏み出す」
序章 過ちへと踏み出す
それらは『殺人姫』と呼ばれていた。
女性を思わせる輪郭は蠱惑的で艶やか。長い髪は大量の鎌首を持ち上げた蛇のごとく、うねって広がっていた。顔はのっぺりとして、目も口も存在しない。全てが漆黒よりなお暗い闇をもって作られた闇偶人だった。
感覚器を持たないはずなのだが、彼女らが標的を見誤ることはない。その身に力包石の能力を宿す、黒髪の年若い娘を見つけるとしなやかな髪を使って絡め取り、自由を奪って、哀れな娘たちの中身を少しも残らず啜り出す。萎びた革袋のようになった残骸には未練もみせずに放り出し、また新しい獲物を探す。
一度捕らえられれば、その恐ろしい抱擁からは逃れられない。
闇偶人――トゥレラは黄昏の闇の中から生まれる。普段は黒い霧のようにしか見えない。世界に蔓延する悪意のみを最低限の糧として、あてどなく彷徨い続ける。そして獲物となる娘を見つけると、あっという間に人の姿となって襲いかかるのだった。
なぜ若い娘を狙うのか。理由は誰にもわからない。ただ、こんな話がある。
トゥレラの創造主は闇の神。闇の神はかつて光の神との争いに敗れ、地の底へと追いやられた。かの神とその創造物である、光を操る慈愛の存在『平和姫』に。
遠く遠く、創世神話の時代の伝説である。
その伝説はこうも伝える。『平和姫は力包石を持った黒髪の娘』と。
だから、トゥレラは黒髪の娘を襲って喰らう。創造主の仇敵への報復のため。
そして、今日も。
二人の黒髪の少女が、お互いの中に隠れようとするかのように抱き合って震えていた。
彼女たちの眼前には柳の如くしなやかな女性型となったトゥレラの姿がある。
周囲には既に無残な姿となった少女たちが残骸として転がっていた。
「赤イ石……青イ石……」
薄い鉄板をかき鳴らしているような不気味な声が、口のないトゥレラから響いた。
片方の少女は青い石のペンダントを身につけていた。
箱に入れられて街角に捨てられていた赤子が、くるまれていた産着の他にたったひとつ持っていたものだった。裕福な養い親はそれを銀細工で飾ると、自分たちの子のひとりとなった娘に与えた。
石を持たない娘もまた、同じ養い親に拾われた身の上だった。彼女は金の護身剣を与えられていた。それは自分と、銀のペンダントを与えられた姉妹を守るためのものだった。
勇気を振り絞り、娘は震える手で金の鞘から刃を引き抜いた。その自慢の刃を振り上げる前に、蛇が這う時のような音を立てて、娘たちにトゥレラの髪の毛が絡みついてきた。悲鳴がふたつ響いた。
自分が助かるべく、姉妹を助けるべく、娘は無我夢中で剣を振り回した。驚いたことに、トゥレラの黒い髪はあっさりと切れて二人は解放された。しかし、今度は娘の剣を持った手だけに倍の量のトゥレラの髪が絡みついてきた。娘の手から短剣が落ちて地に転がる。響いた悲鳴はひとつだけだった。
『助けて!』
娘の茶色の瞳が、同じ特徴を持つ少女を探して彷徨う。
しかし、解放された少女はあろうことかその場を逃げ出そうとしていた。すぐ手の届く位置に短剣が転がっているのに。自分の胸に力包石を持っているのに。
娘の瞳は絶望の色に染まり、そしてすぐに闇に閉ざされた。
ついさっきまで姉とも妹とも思っていた娘であった残骸をトゥレラが投げ捨てた。
少女はそれでもまだもがき、遅々とした動きでその場を逃げ出そうとする。
死にたくなかった。ここで死ぬわけにはいかなかった。
自分には使命がある。だから養い親は自分を養女にし、似たような娘たちを自分の護り役として集め育てたのだ。だから逃げようとした。
トゥレラの髪が触手となり、再び少女の手足を絡め取る。もう駄目かと思った矢先、閃光を浴びたトゥレラは悲鳴をあげてちりぢりになった。
『え?』
娘はトゥレラを蹴散らす原因となった自身の胸元をみつめた。
そこでは青いペンダントが神々しく輝いていた。
『なんで……どうして……』
さっきまではなかった神秘的な光が、少女の絶望に染まった顔を照らし出す。
『まだ時は至っていないんじゃなかったの……?』
わかっていれば逃げなかったのに。
使命を果たし、娘を助けられたのに。
それはもうただの言い訳にしかすぎず、悲嘆と後悔に哭く少女は、いつの間にか後ろに迫った黒い人影に気づかずにいた。
『殺人姫』トゥレラの獲物となり、そこから逃れられた少女はひとりもいない。
ただ、ひとりの少女だけが、襲撃後の死亡を確認されておらず行方不明――。
それも、今は遠い昔の物語である。
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