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  それはシエルが13歳になる少し前の出来事だった。
  孤児院に、1組の夫婦がやってきた。金髪蒼眼の貴族だった。
(貴族が子供を買いにきた)
  貴族が北部の子供にお金を払うというのは、北部では当たり前のことだった。
  貴族はある程度まで成長した、ききわけのいい子供。そして自分達貴族社会
に出しても恥ずかしくない容姿をした子供を欲しがった。
  シエルも何人かの子供が買われていく姿を見た。子供はどの子も貴族の傲慢
な態度に恐れをいだくのだが、結局いくらかの金と引き換えに連れて行かれて
しまっていた。
  可哀想だなとは思ったが、自分には決してこない上等の養子先だ。シエルの
中にはいくらかのうらやましさがあった。
(ま、オレが養子に行くことなんて生涯ないんだから)
  その貴族と、シエルは関係ないと思っていた。
  ところが……その貴族は、10歳に成長したアテネを欲しがったのである。
  10歳になったアテネは文句のつけどころのない、可愛い女の子に成長してい
た。ふわふわのくせっ毛が愛らしく、青い目は鈴を張ったようにぱちんとして
いる。
『アテネ、行かないよな?!  貴族の養女になんかならないよな?!』
  院長室から出て来たアテネを捕まえて、シエルはすがるように言った。
『うん……』
  アテネの返事は曖昧だった。
『貴族の養女になんかなるなよ!!  あいつら、オレたちの外見が欲しいんだ。
人形みたいにされちまうぞ?!』
『そう……だよね。だけど……』
『だけど?』
『貴族って、お金持ちなのよね』
  アテネはそれだけ言うと、身を翻して走り去ってしまった。

  翌朝。
(遅いな……)
  シエルは食堂の入り口で、アテネが食事に降りてくるのを待っていた。
  けれど、パンが並べられても、ミルクが注がれてもアテネが来る気配はない。
  たまりかねて、シエルは食事の準備をしていた世話役の娘に聞いた。
『あら。シエル君、知らなかったの?』
  娘は意外そうに目を見張る。
『アテネちゃんは、昨日の貴族の養女になったのよ』
『え?!』
『院長先生がアテネちゃんにはまたとないいい機会だって……』
  娘の言葉が終わる前に、シエルは食堂から院長室まで狭い廊下をかけだした。
  といっても腕が片方ないシエルはバランス感覚に乏しい。狭い廊下のあちこ
ちに体をぶつけてようやく院長室にたどりついた。
『院長先生!  どういうことだよ。どうしてアテネを貴族の養女になんかした
んだよ?!』
  院長は神経質そうな細面をぴくりとさせた。
『心外だな』
『何がだよ?!  アテネは来週になったらオレと一緒にここを出て行って、2人
で暮らすんだって前から言ってたじゃないか!!』
  院長はどこか後ろ暗そうな声で言った。
『アテネが……望んだんだ』
『え?』
『今回のことに一番熱心だったのはアテネなんだよ。貴族様のおうちのことを
聞いて、目を輝かせていた。わたしも貴族様みたいなお金持ちのおうちの子に
なりたい、とね』
『嘘だ!』
『嘘なもんか』
  院長の様子にもう後ろめたいものはなかった。
  いや、むしろ今は堂々として、冷たい光に目を輝かせていた。
『いいか、シエル。アテネは生まれてからの10年間、ずっとお前に悩まされて
いたんだ』
『え……?』
『片腕の、障害者の兄。自分の服のボタンひとつかけられない、迷惑なやっか
いもののお荷物。アテネはたった10歳なのに、そのお荷物の面倒を文句も言わ
ずにみてきたんだ。養子の話があっても、その兄が手放したがらないから出て
行けない。可哀想だと前々からみんな同情していたんだよ』
『嘘だ……』
  シエルの体から、力が抜けていく。
『大人になってきて、アテネもわかったんだろう。自分が一人ならどれだけ人
生を楽しめるのか。新しいお父さんとお母さんの手につかまりって、喜んで出
て行ったよ。帰り道のショーウィンドーでクマのぬいぐるみを買ってもらうん
だそうだ』
  院長は窓辺の自分の事務机に歩み寄り、資料をめくった。
『貴族様はお前みたいなのが兄だったなんて知られたくないから、二度とアテ
ネの前に姿をあらわすなとおっしゃっていたよ。アテネももうお前には、障害
児の汚い平民には会いたくないそうだ』
  シエルを完全に打ちのめしたあとで、院長はさらに続ける。
『それと、お前の働き口はみつからなかった。どこの仕事場に話しても障害児
はいらないと言われてね。骨を折ったよ』
『そんな!』
『どこかで働けると思っていたのか?』
  シエルが……自分の保護すべき子供が絶望しているというのに、院長はさら
に残酷な言葉を続けた。
『少しは自分が障害児だって自覚を持ったらどうだ?  片腕の、人に頼らなきゃ
何もできない障害児。今までだってここにすがって、13まで生かしてもらった
んだろ』
  シエルの顔は怒りで紅潮していた。
『お前には規約どおり来週出て行ってもらう。私たちにとってもお前はお荷物
なんだ。この障害児。迷惑なんだよ!』
  院長はそれだけ言うと、シエルを部屋の外に追い出してしまった。
  そして宣言どおり、1週間後にはシエルを孤児院からも『収容年齢を越えた』
という理由で体よく放り出してしまった。
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