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  その日の夜。
  絵麻はクッションを抱いてリビングに座っていた。
  夜は夕食の片付けと翌朝の朝食の支度を終えてしまえば自由時間になる。そ
の時間を絵麻はだいたい優しい本を読んだり、みんなとおしゃべりしたりといっ
たことに費やしていた。
  ただ、今日はそれぞれに用事があるらしく、リビングにいるのは絵麻一人だ。
  普段10人近い人数で使っている場所に1人はさすがに寂しく、その寂しさが
暗く落ち込む気持ちに拍車をかけてくれる。
(ディーン……)
  自分をお金に変えようとしたディーン。
  『お金になれなくてごめんなさい』と泣いたディーン。
  絵麻にはそれが可哀想で仕方なかった。
  けれど、絵麻に何ができたのか。
  あの場所にいながら貴族が乱暴するのを止めることも、ディーンをなぐさめ
てやることもできなかった。
  自分にできることといったら、1人に1口行きあたるかあたらないかのお菓
子を作って持っていってやることぐらいだ。
  それが子供達に果たしてどれだけのなぐさめになるのか。
(なんにもならないよね……)
  絵麻はぎゅっと、クッションに顔を埋めた。
  と、その時、リビングに人が入って来た。
「・・?」
  リボンで束ねられた、輝く太陽の光のような金髪。瑞々しい新緑色の瞳。
  白い肌は怖いくらいになめらかで、氷の彫像を思わせる。
「・・、・・・・・?」
  ルージュ・ラヴァンドの唇が声なき声をつむぎ、そっと絵麻の肩をたたいた。
  顔を上げた絵麻の茶水晶の瞳と、新緑色とが重なり合う。
「リリィ」
  リリィ=アイルランド。第8寮の住人である。
  寮1の、いや、PC1の美貌の持ち主と言っても過言ではない美人で、普段
は文字通り氷の彫像のように凛とした雰囲気を漂わせている。
「まだ起きてたの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「?」
  唇は動くのに、声は出てこない。
「・」
  絵麻がわからない顔をしているのを見て、リリィは手にしていた洗面器をテ
ーブルに置くとポケットからメモ帳を取り出し、それに綴った。
『封隼(ほうじゅん)のところにいたの。彼、熱を出してるから』
「え……熱?」
『傷が治りかけてるんだってリョウが言ってた。でも、つらそうにしてたから』
  リリィはそこまで書いて、細い指先で洗面器を示した。中に水とタオルが入っ
ているところから考えて、水を変えにきたのだろう。
  リリィは声を失っている。
  過去に声を失ってしまうほどの『何か』があったらしい。けれど、リリィは
その『何か』の記憶も一緒に失ってしまっている。
  結果、声を取り戻すことは不可能になっていた。彼女との意志疎通は筆談か、
翔やリョウのように唇の動きを読むことで成立させる。
  絵麻は最近、やっと筆談ができるようになった。ガイアでは使っている文字
が日本語とは違うのだ。加えて言えば言葉も日本語ではない。半ば英語めいた、
絵麻の全く知らない言語をしゃべっているのだが、不思議と意味は理解できて
いたし、翔たちも絵麻も言葉がわからない様子はない。
  閑話休題。
「苦しそう……って?」
  夕食を持って行った時は熱があるような素振りはなかったのに。
  唯美と一緒に、おかずの取り合いして食べてたのに。
 海封隼は第8寮につい最近やってきた、NONETの新規メンバーである。
  第8寮に来る前は武装兵だったという、いわくつきの過去の持ち主。
  唯美とは実の姉弟という間柄である。
  今はケガをして病室にいる。このケガというのが実にどろどろしたもので、
姉である唯美が負わせてしまったのだ。
  幸い、手当が早かったことと急所を僅かに外れていたことで命は取り留めた
のだが、武装兵時代から体を酷使し続けたことが原因で衰弱してしまっていて、
ベッドから離れられない一進一退の状態になってしまっている。
『熱が高いのよ。水がぬるくなっちゃったから、取り替えに来たの』
  リリィはそう言って、洗面器を持って台所に行った。
  絵麻も一緒についていく。
「そうだ。熱あるんなら冷たいお茶でもいれてあげようかな」
「・・・・・・?」
「うん。ついて行く」
  リリィは洗面器を持って、絵麻はお盆にのせた冷たいお茶を持って廊下をリ
ビングとは反対側に歩く。病室は1階の、リビングとは反対側にあるのだ。
「封隼、入るよ」
「……絵麻?」
  絵麻がリリィと一緒に来たのを見て、封隼は少し驚いたようだった。
  姉である唯美と同じ、漆黒の瞳は熱のせいかうつろで、焦点が定まっていな
い。
  前髪が寝汗で額に張り付いてしまっている。
  熱でうっすらと上気した頬には唯美に切られたナイフの傷が薄く残っていて。
  いつも黒い軍服を着ていたので、パジャマがわりの白いシャツは彼を消えて
しまいそうな印象に見せた。
「大丈夫?  夕方はこんなんじゃなかったのに」
「ああ……」
「・・」
「え?」
「・・・・・、・・・・・・・・」
  リリィは形のいい眉を寄せながら封隼に言う。
「……何でリリィにはわかるんだろうな」
「・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・」
「ああ……これからはそうするよ」
「?」
  絵麻はきょとんとする。
「封隼、リリィの言ってることわかるの?」
「ああ。おれ、字の読み書きは苦手だけど、唇は読めるんだ。覚えたから」
「そうなの?」
  戦場で育ったと言っている封隼だから、これはありえることなのかもしれな
い。
「リリィ、何て言ったの?」
「『夕方から具合は悪かったはずだ』って。何でバレるんだろう」
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