その空気の変化に最初に気づいたのは、唯美だった。 (……あ) 気がつくと、薄暗い天上裏に絵麻と翔がいなくなっている。 (逢引かあ。翔もなかなかやるじゃん) 普段だったらからかいのネタ直行なのだが、今それをするのは、さすが に気がとがめた。 なので、唯美は黙っておくことにして毛布の権利争いに参加した。 次に変化に気づいたのはその30分後だった。 隣にいたはずの弟と、リリィの姿がない。 (あれ?!) 現役諜報員に気づかれずに出て行った弟にそら恐ろしいものを感じたの だが、リリィと一緒というのが考えにくかった。なぜ2人が出て行ったの だろう。いくら仲がいいとはいえ、彼女が絵麻と翔の邪魔をするわけがな いし。 考えるうちに、唯美は物言いたげな哉人の視線に気づいた。 「?」 哉人が視線を横に振る。そこでは、いつの間にか信也とリョウが寄り添 うようにしていた。 たいぶいいムードの様子で。 (あーらら……絵麻と翔の陰に隠れてるけど、もう1組いるのよね) リリィと封隼が姿を消した理由がやっとわかった。リリィはもちろん、 封隼も察しがいい。唯美より先に気づいて、いたたまれなくなったのか気 をきかせたのかはわからないが、それで出て行ったのだろう。 唯美の表情の変化を見た哉人が「やってらんないよな」と言いたげな表 情で肩をすくめた。考えることは同じのようだ。 「アテネ、お兄ちゃんと一緒に寝るー」 「子供の頃みたいだな」 「マシュマロちゃんも一緒ね」 「猫と一緒はちょっと……」 未だに毛布の事で騒いでいるのはシエルとアテネだ。 (……気づいてないの?!) 唯美はぎょっとして2人を見た。 哉人も呆れた顔をしている。空気が読めないのかこの兄妹。 ……いや、鈍いのは今にはじまったことではないか。 唯美と哉人はまた顔を見合わせて、同時に苦笑いした。 相変わらず、信也とリョウはいい雰囲気である。 今すぐ出て行きたいのだが、この空気の読めない兄妹を放置していいも のかどうか。絵麻と翔に時間がないのはもちろんだが、明日もし何かがあ るとしたら、信也とリョウにだって時間は今夜しかないのだ。 そんな唯美の願いが通じたのか、アテネがふと視線を唯美に向けた。す かさず、唯美は顎を信也たちの方に振る。 さすがのアテネも気づいたようで「あっ」と小さく声をあげた。シエル が「どうした?」と妹を覗き込む。 哉人は既にはしご段を降り始めていた。唯美は意識を集中する。視界が ゆっくりとぼやけはじめた。 掠れた視界の中で、兄妹がそっとはしご段の方に移動するのが見えた。 唯美は第8寮の裏手の森で、3人が来るのを待っていた。 絵麻たちは森の中にほとんど入ってこないが、唯美やシエル、哉人は孤 児院の子供達の遊びに付き合って、たまに中に入る。 少し入り込むと開けたスペースがあり。そこには清水がわいていて、エ ヴァーピースに流れる小川の源になっている。その近くに、木の枝で作っ た子供達の秘密基地があるのだ。唯美たちも作るのを手伝った。屋根を止 めているワイヤーは哉人のものだ。 自分達も子供みたいに、わいわい騒ぎながら作った。遊んであげている つもりで、本当はこちらが遊んでもらっていたのかもしれない。内戦で失っ てしまった子供時代を埋めてもらうように。 「唯美ちゃーん」 アテネの声に、唯美は物思いから覚めた。手を振りながら、片手で子猫 を大事に抱いて、アテネが走ってくる。 「びっくりしちゃった。ラブラブだね♪」 「早く気がつきなさいよね」 「自然すぎてわかんなかった」 「アンタたち鈍すぎ。リリィと封隼なんかとっくに気がついてさっさと逃 げてたわよ」 「どこ行っちゃったんだろうね」 「そういえば」 そういえば、あの2人はどこに行ったんだろう。 アテネの腕の中で、抱かれていた白い子猫がじたばたともがく。もがい てアテネの腕を逃れると、ニャッと小さく鳴いて地面に降りる。そして短 い足でぱたぱた走り出した。 「あ、マシュマロちゃん待って!」 アテネがおいかけて走り出す。 「あーあ」 「アテネ、あまり遠くまで行くなよ」 「うん。お兄ちゃん」 後から来たシエルににっこりと返事して、アテネは子猫を追いかけて行っ た。 「幸せそうだなあ……」 「お前もな」 横にいた哉人が言う。 アテネを追いかける瞳は、とても優しい色をしていた。いとおしい者を 見守る色。 哉人の大嫌いな青い目なのに、その色は嫌いじゃなかった。 シエルはしばらく妹の姿を見ていたのだが、ふいにため息をついた。 「? どうした?」 「いや……ちょっと、考えてさ」 「何を」 「この手」 シエルは空から降る青い光に、自分の左手をかざした。 「片手だけじゃ、自分を支えるのでいっぱいいっぱいで、妹守ってやるこ ともできなくて」 気づいた時には、自分を守ってくれるものは何もなかった。両親は亡く、 自分を支える腕さえ片方しか残されていなかった。 「アテネだけ守れればそれでよかった。他に守りたい物なんてなかった。 けど、今はさ。みんな守りてーんだ」 「……」 哉人が何も言わなかったのを見て、シエルが肩をすくめた。 「気色悪いか? オレがこんな事言ったら」 哉人は首を振った。 自分も同じだと言ったら、シエルはまず間違いなく笑うだろう。笑われ たくなくて、哉人は口を閉ざした。 「多すぎて、片手だけじゃ守りきれねーや」 シエルは苦笑いすると、左手をポケットにつっこんだ。 「……てやるよ」 「え?」 「手、貸してやるよ」 ぼくも守りたいからという続きは、ひねくれた性格が邪魔して言えなかっ た。 「哉人?」 「そうだな。1回1エオロー、だっけ?」 目を丸くしたシエルが何か言う前に、慌てて冗談っぽく付け足す。 「……せめて半額」 「せめてで半額って何だよ。図々しい」 「えー?」 目を見合わせる。次の瞬間、どちらともなく笑い出した。 澄んだ夜空に、笑う声が響いた。 アテネはちょうど子猫をつかまえた時に、その笑い声を聞いた。 「あ、お兄ちゃん笑ってる」 「何やってんのかしら」 一緒に来た唯美が、そちらの方角を仰いだ。 「お兄ちゃん、楽しそう。よかったな」 アテネは子猫を抱くと、ぺたんと座りこんだ。 「アンタの基準って、いつでもお兄ちゃんよね」 「だって、アテネはお兄ちゃんが笑ってると嬉しいよ」 一緒になって座りこんだ唯美の横で、アテネは子猫を撫ぜた。 遊び疲れたのか、すっかり大人しくなった子猫がごろごろと喉を鳴らす。 「アテネ、みんなに笑っててほしい。みんなで笑ったら、きっと、いっぱ い楽しいよ」 「そーね」 唯美はかぶっていた帽子をとった。 幼い頃から、武装集団に復讐してやることしか考えていなかった。涙は 捨てた。他人は利用するだけのものだった。 自分がいちばん不幸だと思っていた。けれど、違った。 「……アタシも、みんなに笑っててほしいな」 「でしょ? 唯美ちゃんも笑ってね?」 アテネは子猫を、唯美の頬に押し付けた。 白い毛並みはふわふわと温かく、唯美を笑顔にするには充分だった。