君に触れたいと願い

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君に触れたいと願い

「緋牙!」
 賑やかな声と笑顔と一緒に、恋人が緋牙の執務室に現れる。孤児院にいる時には飾り気なく束ねている亜麻色の髪を、きっちり撫でつけているのが何とも可愛らしい。片手に下げたバスケットの中身が楽しみで仕方のない自分に気づく。
「お仕事終わった? ご飯作ってきたよ」
 美音はそう言うと、バスケットを緋牙の机の上に置いた。そして自分はいそいそと部屋の棚の上に置いてあったポットの方に歩いて行く。当初はこの部屋に給湯設備はなかったのだが「お茶もなしで仕事したら疲れるじゃない」という美音の一声で導入された。概ね好評である。
「ありがとう。今日は何?」
「サンドイッチと、あと孤児院で作ったハンバーグもらってきたよ」
 お茶を入れながら、美音が言う。
「このバスケット、孤児院の夕飯作りながら詰めてるって本当だったんだな」
 部下から聞いた話との合致に、緋牙は僅かに嘆息する。美音の方は「仕事は効率的にしなくっちゃ」と全く気にする様子がない。
「俺のことは仕事?」
「はいはい。タチの悪い冗談は頭の中で思うだけにしなさいな」
 ぴしりと言うと、美音は紅茶の入ったカップを机の上に置いた。
「ヒーローがそんなこと言うと信用がなくなるのよ」
 美音はユーリの机から椅子を引っ張ってきて座った。手際よくバスケットから中身を取り出して緋牙にすすめる。
「今日のはね、孤児院のお手伝いに来てくれたワイルダーおばさんに教わった方法で作ったのよ。イオも手伝ってくれた。宜しくお伝え下さい、ですって」
 妹の名前を出して微笑むと、美音は賑やかに今日一日の出来事を話し始めた。
 美音は、妹の伊織と一緒に自分が育った孤児院の保母として働いている。そのため、昼日中から正反対の位置にあるPC本部に顔を出せることはなく、こうして仕事が一段落した夜に、緋牙の夕飯を詰めたバスケットを持って毎日顔を出していた。思いを通わせてから、一日も欠かさずに。
 それは緋牙にとって、とても嬉しいことだった。こうして自分を気遣ってもらうのは、母が亡くなってからずっとなかったことだから。
 美音の自分への想いを知った時から、ずっと彼女を愛している。こんなにも好きになる人には、もう二度と出会わないと思うくらいに。
 でも、愛情の伝え方が、緋牙にはいまいちわからないのだった。豪華な食事や衣服を贈ろうとしたら、美音に拒絶されたのはついこの間のことだ。彼女は「そんなものが欲しくてあなたと一緒にいるんじゃない」と激しく怒り、しばらく口を利いてくれなかった。
 それではどうすればいいのかと考えて、美音は金銭や品物ではなく、この自分の愛情を求めてくれているのだと気づいた時は仕事中だったにも関わらずに笑ってしまい、側にいたユーリにかなり不審がられてしまった。
 感謝の言葉を、緋牙は幾度も口にしてきた。態度にも以前よりずっと出すようになったと思う。そうするようになってから、まだ足りないと思う自分の気持ちに気づいた。
 要するに、美音に触れたいと願っているわけだが、そうすることには躊躇いがあった。
 自分が愛した相手は、期間の違いこそあれ早期に落命してしまう。そういう呪いが緋牙にはかかっている。
 親しく触れれば、それだけ相手は短命になる。緋牙は美音を失いたくなかった。こんなにも優しく朗らかな彼女が早世してしまうだなんて考えたくもなかった。自分はもちろん、彼女を慕う伊織やユーリ、孤児院のシスターが悲しい思いをする。美音は自分はもちろん、他の人にとってもかけがえのない人だ。
 だから、緋牙は未だに美音に触れられないのだ。それをわかってくれているのか、美音からも緋牙に触れようとはしなかった。
 二人でバスケットを空にしてしまうと、緋牙は残っていた書類の片付けを再開し、美音はポットに水を足したり、ユーリにも黙って置いてある編み籠から毛糸玉と編み棒を出して編み物をはじめた。緋牙の好きな色で編まれたそれは、マフラーになる予定なのだそうだ。
 書類の片付けが終わった頃には、時計の針は二十二時を回っていた。緋牙の住居はPCの敷地内にあるのだが、美音は街中のPCが職員のために貸し出しているアパートに暮らしているので、ここから夜道を歩くことになる。この時間に女性一人で外を歩かせるのは言語道断なので、緋牙は時間が遅くなった時には彼女をアパートの門まで送っていくようにしている。
「いつもありがとうね。緋牙の家は敷地の中なのに」
「ミオとイオも引っ越してくるか? 部屋ならいくらでも作れるし」
「だから、そんな特別待遇はいりませんってば」
 美音が勢いよく手を振り上げたので、空のバスケットが緋牙に当たりそうになる。
「……ごめん」
「あたしも、緋牙にいつでも会いたいよ。緋牙の時間も割かせたくない。でも、PCの敷地内に引っ越しちゃったら、孤児院から遠くなっちゃう」
 緋牙も、孤児院も大切なのだと彼女は言った。そんな彼女のことが緋牙は好きだから、強いてとは言わなかった。むしろ孤児院を切り捨てて自分にべったりとくっつくような女だったら、こちらが切り捨てているだろう。
 言葉少なになった夜道に、青い球体からの光が降っていた。空には真円に少し欠けたような形がある。これから満ちていくのか、あるいはこれから欠けていくだけなのか。
 アパートの門にたどり着くと、美音が名残惜しそうに緋牙を見上げた。その表情に、たまらずに手を伸ばす。
 美音の亜麻色の髪に、緋牙の指先が絡んだ。美音が目を閉じる。
 緋牙は曲線をなぞるように手を動かしたのだが、その先に進むことがどうしてもできなかった。
 触れたら、壊してしまう。壊れてしまう。彼女を失うなんて絶対に嫌だ。
 そうしてしばらく硬直していたら、美音が琥珀色の目を開けた。彼女は固まっている恋人に気づくと、不服そうに眉をつり上げた。
「……緋牙?」
「あ、いや、その……」
 一組織を率いている者にふさわしくない弱気な声が出て、美音の怒りに油を注ぐ。彼女は自分の髪に絡んだままの緋牙の手を振り払うと、緋牙の肩を両手でつかんだ。そのまま背伸びして、緋牙の唇に自分の唇を押し当てる。
「!」
 やわらかい感触を感じて、緋牙は次の瞬間、美音を振り払った。
「何するんだよミオ!」
「何するんだはそっちでしょ!」
 美音は勢いよく言った。
「あれだけムード作っておいて、何もしないってどういうことよ! あたし、そんなに魅力がないの?」
 剣呑な声と対照的に、瞳がうるんでいる。
「そんなわけないだろ……俺が触ったら、ミオが……」
 絞り出すようにそれだけ言って、情けなくうつむいた緋牙に、美音は態度をやわらげた。
「キスくらいじゃ呪いの効果は出ないわよ」
 返す言葉のない緋牙に、美音は重ねて続ける。
「それに、もうあたしは緋牙に愛されちゃってるんだから、触れる触れないに関わらず呪いの対象よ? だったら触れておいた方が得じゃない?」
「自分で『愛されてる』とか言うかなあ」
 苦く笑った緋牙に、美音は明るく笑いかけた。
「愛されてるわよ。あの堅物の緋牙が家まで送ってくれるんですもの」
 自信たっぷりに笑う彼女が、愛しすぎて。
 さっき振り払った体を、自分の胸に抱き寄せる。外気の寒さが肌を刺すまで、緋牙は美音を抱きしめていた。はじめて触れる彼女の暖かさを確かめていた。

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