あの頃、世界には色が溢れていた

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あの頃、世界には色が溢れていた

 緋牙は、生涯人を愛さないと決めていた。
 世間から見れば、代々平和部隊の総帥をつとめる名家の嫡男というのは相当に恵まれた立場のはずだ。その名家の者が例外なく自分に流れる血を恨み、忌み嫌っているとも知らずに。
 先代の平和部隊総帥である父親は、妻である緋牙の母親を省みなかった。仕事、仕事と外に出てばかりで、家を守り食事を作って待つ母親のことなんか存在しないも同然に振る舞っていた。そうして母はたった独りで死んでいった。あの父親のせいで。
 自分の家系の境遇に加え、そんな両親を目の当たりにすれば、当時成人前の緋牙が生涯人を愛さないと心に誓ってしまっても仕方がなかったかも知れない。それ以来、緋牙の世界は色を失った。
 心を凍てつかせた灰色の時間の中で、それでも結局、緋牙は呪いに抗えない自分を悟った。どうしようもなく大切な人ができてしまったからだ。
 芯の強い女性だった。その細い手で妹を、育った孤児院を支え、おそらくどうしようもなく冷徹な上司であった緋牙にも臆することはなかった。
「そんなに怖い顔ばかりしてないで。貴方は平和部隊の総帥でしょ? 正義のヒーローは笑ってなくっちゃ」
 緋牙の事情も知らず、こんなことを言うのだ。どんな顔をしているんだろうと思ってその時はじめてまじまじと見てみたら、意外にかわいい顔をしていた。
 美音(ミオト)という名を持つ彼女は、その名のとおりに心地良い人だった。彼女は決して暇ではなかったはずなのに、あれだけ憎んでいた父親と同じように執務室に引きこもっていた緋牙をはるばる孤児院から引っ張り出しに来た。
「ほら、外に出て深呼吸! 篭ってばっかじゃ気が塞いじゃう」
 妹と、緋牙が孤児院に預けた少年を引き連れて美音は毎日のように執務室に押しかけた。決して豪勢ではない、けれど温かい食事の入ったバスケットを持って。
 なぜ、こんなに自分に構うのだろう。孤児院の存続? 平和部隊総帥の妻の座が欲しいから?
 そう思って美音に真実をぶちまけてみたら、彼女は泣いた。それは自分の打算が崩れた悲しみではなくて、緋牙のための涙だった。
「なんで言ってくれなかったの?」
 言ったところで、緋牙が抱えるこの厄介な呪いが消えてくれるわけでもない。
「なんでひとりで我慢してたの? そんなの抱えてたら、緋牙は潰されちゃうでしょ?」
 潰れないよ。どっかに子供ができるまでは生きてるさ。そういうふうにできてるんだから。そう言ったら目に涙をためたまま怒られた。
「そんなこと言わないで」
 美音は緋牙の襟元をつかむと、がくがくと揺すり上げた。細い腕の思いがけない力に緋牙はびっくりする。
「独りは寂しいのよ。あたしはイオと二人だったけど、シスターたちもいてくれたけど、それでも寂しかったもの」
 だから、独りを選ぼうなんて思わないで。あたしもイオもユーリもいるよ。
 そうして美音は緋牙の世界に色を取り戻させた。子供が生まれれば永くないと知りながら、それでも彼女は緋牙の子を欲しがった。
 美音は、誰よりも家族に憧れていた。そして彼女は、緋牙を独りにすることを恐れていた。自分は早くにいなくなってしまうのかも知れないけれど、子供がたくさんいれば緋牙は寂しくないよねと、そんなことを言って笑っていた。死ぬのは自分なのに。緋牙のせいなのに。
 緋牙は子供なんて欲しくなかった。自分の呪いを引き継がせてしまうだけだし、何より美音を失うことが耐えられなかった。五年近く保たせたが、それでも継承者は生まれてしまった。大いなる呪いと、祝福と共に。
「ただいま」
 自宅に帰ると、シチューのいい匂いがした。軽い足音がして、リビングから子供が走り出てくる。
「ぱぱ、おかえりなさい!」
 そう言って手を伸ばしてきた息子を抱き上げる。茶色の髪が自分と同じだが、可愛い顔立ちはどちらかといえば妻の方に似ているだろう。親の贔屓目だとはわかっているが、息子は可愛い。なんといっても美音の子供なのだから。母親の方に似て、このまま呪いを継がずにいてくれないかなと、そんなことを願う。
 子供に少し遅れて、美音が姿をみせた。亜麻色の髪を飾り気なく後ろで束ね、水気の残る手をしきりにエプロンでぬぐっている。
「おかえりなさい。夕ご飯、できてるよ」
 鳥肉のシチューにしたんだよ。今朝、食べたいって言ってたでしょ? そう言って美音は笑った。
「ぱぱ、おふろはいろ。みずでっぽうしよー」
 腕の中の息子はそんなことを言って甘えてくる。
「フーガ。こっちにいらっしゃい。パパは帰ってきたばっかりで疲れてるんだから」
 母親に言われ、息子はふくれっ面になったがそれでも甘える対象をやわらかな母親に切り替えた。ずっしり重い息子を腕に抱き、美音が幸福そうな笑顔をみせる。息子も一緒に笑っている。
 ああ、どうしてこんなにも幸せなのだろう。どうしてこの幸せをくれた人を失わなければならないのだろう。その時はやがて確実に訪れるのだ。
「ミオ」
 名前を呼ぶと、美音は不思議そうに振り返った。笑顔で、彼女に告げる。
「君と出会わなければ良かった」


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