チョコレート狂想曲

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チョコレート狂想曲

「ガイアってバレンタインあったの?!」
 絵麻がその話を聞いたのは、バレンタインの前々日だった。
 女の子五人で食後のお茶を決め込んでいたら、今年のバレンタインをどうするかという話になったのだ。そこで発覚した。
「絵麻、知らなかったの?」
「世間知らずなのは知ってるんだけど、バレンタインを知らないとはね」
「バレンタインは知ってるよ! 日本にもあるもん」
 唯美に哀れまれてしまったので、絵麻はむきになって反論した。
「ほら、こんなことでケンカしないの」
 リョウが二人をなだめる。リリィが絵麻に問いかけた。
「ニホン……だっけ。絵麻の世界のバレンタインもチョコレートをあげるの?」
「そうだよ。好きな人にチョコレートあげるの」
 でも、この習慣は確か日本の企業の販促だった気がするのだが。絵麻が聞いた話では、チョコレート会社の一年間の売上は二月に集中しているらしい。
「ガイアではね、チョコレートは好きな人の無事を願ってプレゼントするのよ」
「無事?」
「チョコレートは簡単に携帯できて高カロリーでしょ? もしいきなり内戦に巻き込まれて食料が確保できなくなってもしのげるようにって」
「なるほど……」
「好きな人にプレゼントってとこだけが一人歩きしてるから、品物はキャンディーになったり装飾品になったりするわね」
「職場にも撒かなきゃなんないのよね……面倒くさい」
 その辺りは日本と変わらないらしい。
「みんな、誰かにチョコあげるの?」
 好奇心から、絵麻は聞いてみた。
「アテネ、お兄ちゃんにあげる!」
 はいはいと、アテネが元気よく挙手する。
「ずっと楽しみにしてたのよ。お兄ちゃんにチョコあげるの!」
「? 今まであげてなかったの?」
 アテネの性格からして、毎年欠かさずシエルに贈っていそうなものなのだが。
 それを聞くと、アテネはしゅんとしょげた。
「だって、孤児院じゃチョコは手に入らないんだもの」
「ああ……」
 思いがけず暗い話題になってしまった。
「それじゃ、今年が初めてのチョコレートだね?」
 リリィに優しく問われ、アテネはまた笑顔になった。
「そうなの! だから、とっておきをお兄ちゃんにあげる! アテネ、がんばるんだ」
「リリィはどうするの?」
「職場の人に渡す程度かな。絵麻は?」
 聞かれた瞬間、絵麻の頭に浮かんだのは翔のことだった。とたんに顔が真っ赤に染まる。
「あ、絵麻赤くなった」
「どうせやらしいこと考えたんでしょ」
「違うもん!」
 唯美に茶化され、絵麻は首を振った。
「唯美こそどうするの?」
「アタシに聞く?!」
 思わぬ逆襲に、唯美はどういうわけか慌てた。
「ア、アタシは別に職場にばらまく程度よ。それだけなんだから!」
「封隼にはあげないの?」
 リョウに言われ、唯美はきょとんとした。
「あ、なんだそっちか」
「そっちって……他に何があったのよ?」
「いや、その」
「シエルでしょ?」
 涼やかなリリィの声に、四人の視線が集中する。
「え?」
「ちょっ、リリィ!」
「唯美ってそうだったの?」
「えーっ! 唯美ちゃんなんでお兄ちゃんにあげるの?!」
 絵麻とリョウは信じられないといった表情になり、アテネは絶叫した。リリィはといえば涼しげに笑っている。
「べ、別に深い意味なんかないんだから!」
 唯美はそれだけ言うとあっという間に席を立って行ってしまった。そのため、会話はそこでお流れになった。

*****

「チョコレートが欲しい!」
 ところ変わって、リビングのソファでシエルが力説していた。
「……自分で買えよ」
 哉人が冷め切った声で告げ、携帯端末のキーを叩く。
「バレンタインチョコが欲しいんだよ」
「ばれんたいん、って?」
「封隼、知らないの?」
 封隼はこくりと頷いた。
「年に一度、女の人が大切な人に無事を願ってチョコレートをあげるんだよ」
 翔の説明は簡潔かつ的確だった。が、封隼は不思議そうに首を傾げた。
「チョコレート、もらえるの?」
 どうやら無償で食べ物がもらえることが不思議だったらしい。
「これが男の間では一種のステータスになってるんだよな。多くもらえた奴は優越感に浸り、もらえなかった奴は悔しさに歯がみする。質と量で男の価値が決まる。バレンタインってのは一大決戦なんだよ!」
 シエルが訥々と語る。ご丁寧に拳まで握っている。
「そんな大げさに言わなくてもいいだろ」
「信也は毎年もらえてるからこの悔しさがわかんねーんだよ!」
「お前、もらえなかったのか?」
 場を沈黙が支配した。
「……哉人だってもらってねーだろ」
「ぼくを一緒にするな!」
 哉人が淡い青色の目でシエルを睨む。
「ぼくは中央首都にいた頃はもらってた。もらったことがないのはお前だけだ」
「マジ?」
 シエルが情けなく肩を落とす。
「おれももらってないから」
 封隼はそう言ったのだが、武装集団にいた封隼と、一応普通の暮らしをしていたシエルでは比較に無理があるだろう。
「信也はリョウがいるし……そうだ、翔。翔は?」
 シエルは期待をこめて本を読んでいた翔の方を向いたのだが、翔は本に目を落としたままで事も無げに告げた。
「僕は学生時代によく貰ったけど」
「よく……だと?!」
「そうだな。十個は貰ってたかも」
「十個!」
 この数字には他の三人も言葉を失った。
「高等学校って凄いんだな」
「……そういう問題か?」
「あー、オレもチョコが欲しい!」
 シエルがまた叫んだ。哉人が煩わしげに耳をふさぎ、翔はそんな二人をしげしげと眺めてから、面白そうに笑って言った。
「でも僕、今年シエルがもらうチョコの数わかるよ」
「?」
 シエルが訝しげに翔を見る。
「「「アテネからひとつ!」」」
 次の瞬間、翔、信也、哉人の声が綺麗に重なった。
「お前ら……」

*****

 翌日、絵麻はさっそく雑貨屋に出かけて板チョコを買った。
 何にするか迷ったのだが、第八寮の面々にはザッハトルテを焼くことにした。大切な人にあげる習慣なんだとしたら、女の子にあげても構わないはずだ。
 大きなホールをひとつと、それよりも小さなものをひとつ。これは翔に渡すためのものだ。
 絵麻は材料に余裕があると、たまにケーキを焼く。普通、ホールケーキは八等分するのが標準の大きさだが、第八寮には十人いるので十等分することになる。当然、ケーキは小さくなり、翔はいつももっと食べたそうな顔をしている。
 だから、バレンタインは彼に思い切りケーキを食べて貰おうと思ったのだ。
 これに加えて、週に一度差し入れている孤児院のおやつをチョコチップクッキーにする。普段の家事に加えてこれだけのお菓子を作るのだから、今日は忙しくなりそうだ。
 台所で絵麻がせわしなく立ち働いていると、アテネが入ってきた。
「絵麻ちゃん! ちょっと教えて欲しいの」
「? 何を?」
「チョコを溶かすって、お水とお湯どっちがいいのかな?」
「お湯だけど。……って、まさか直接溶かす気?!」
 アテネは頷いた。
「アテネ、お兄ちゃんにチョコ作るの。だけど、チョコ溶かしたことないからわかんなくって」
「湯せんするんだよ」
 絵麻は慌ててボールを取り出すと、鍋に湯を沸かしはじめた。
「ユセン?」
 絵麻は沸いた湯の中にボールを浮かべた。アテネからチョコを受け取り、ボールの中に入れる。
「こうやって溶かすの。直接じゃダメだよ。薄くなっちゃう」
「そうなんだ。アテネひとつ賢くなった!」
 アテネは無邪気に笑った。
「絵麻ちゃんもチョコ作るの?」
「みんなのぶんのザッハトルテを焼くんだよ。アテネは、シエルに作るの?」
「うん!」
 アテネは持っていた袋から金属のハート型を取り出した。
「溶かしてこれに入れるの。ハートの形」
「じゃ、一緒に作ろっか」
 絵麻はアテネと並んで調理を再開した。
 アテネを手伝いながらになったので、必然的に絵麻が想像していたよりずっと忙しくなった。けれど、妹みたいなアテネと並んでバレンタインのお菓子を作れたのは、絵麻にとって嬉しいことだった。
 クッキーもザッハトルテもなかなかの出来に仕上った。翔に作った小さな方は、箱に入れてリボンをかける。
「? それだけ別なの?」
 アテネがめざとく見つけ、チョコレートを作る手を止める。
「あ、これはえっとそのつまり」
「翔さんに?」
 アテネはにふふと笑った。翔という名前を耳にした瞬間、絵麻の頬が染まる。
「……うん」
「翔さん、いっぱい食べるもんね!」
 アテネの返答は絵麻の気持ちをわかっているともいないとも取れるものだったが、絵麻の頬は染まったままだった。
(好きな人にバレンタインのプレゼントをする日が来るなんて、思ってもいなかったな)
 その日、第八寮の冷蔵庫には、二つのザッハトルテと大量のチョコチップクッキーと、アテネの愛がこもったハート型チョコレートがこっそり収納された。

*****

 絵麻とアテネが台所にいた頃、唯美は隣町に買い物に来ていた。
 隣町はエヴァーピースより商店の数が多く、いろいろな店がある。チョコレートの売り場も、エヴァーピースの雑貨屋より広い。売り場は女の子で賑わっていた。
 その賑わいの中に、似合わないと思いながら身を置いてみる。
 仕事仲間に渡すチョコレートは簡単に決まった。携帯できる小さな板チョコ。唯美の同僚の仕事内容を考えれば、充分なものだ。
 封隼に渡すものは、かなり考えた。チョコレートなんてもらったことがないだろう弟だから、喜んでくれるものを渡したい。ああでもないこうでもないとあちこち見て回り、結局、何種類かの詰め合わせにした。ミルクチョコ、ホワイトチョコにストロベリーチョコ。見た目も鮮やかで美味しそうだ。
 そして、今悩みに悩んでいるのはシエルに渡すものだった。
 気がついたら、シエルのことを好きになっていた。最初は外見だけ格好いいくせに口を利かせるとバカで単細胞な挙句金にがめつい奴と散々な評価をしていたのだが、妹を大切にしている姿はひどく羨ましかった。彼のように素直に愛情を注げる自分になりたいと本気で思った。側にいられたら、暗い場所で過ごしてきた自分も明るく照らされるように思った。
 しかし、その思いを口にすることはもちろん、態度に出すことさえ素直じゃない唯美にはとてもできない相談だった。そして、相手のシエルは女性の感情にはてんで疎い鈍感男ときた。シエルの愛情は妹に対してだけ注がれすぎていて、唯美の気持ちになんかまるで気づきもしない。関係は進むどころか、はじまりもしなかった。まあ、唯美はそんなところを含めてシエルのことを気に入っているのだが。
 そんな相手に渡すのだから、普通のチョコレートを渡したくらいでは好意を気づいてもらえるわけがない。金にうるさい相手に渡すのだから高級チョコレートでけりがつくようにも思ったのだが、シエル=アルパインという男は自分の金遣いはもちろん他人の金遣いにもうるさいのである。「なんて無駄遣いをしてんだよ!」と顔を真っ青にして怒鳴られる様は容易に想像できた。「浪費家となんか付き合えるか」くらい思われそうだ。
 あまり高級にならず、かといって義理チョコほど安価でもなく。ほどよい値段で鈍感な相手に好意を伝えられるチョコレート。これははっきり言って難題だった。そして、選ぶのは自分の気持ちを伝えるのが苦手の意地っ張り娘である。二重苦と言っていいだろう。
「どうしたもんかなあ……」
 売り場を無意味に何周もし、あれこれと手にとって考える。いっそ手作りにした方が伝わるかと思ったのだが、自分の料理の腕を考えるとギャンブルと言えた。こんな時、絵麻の料理の腕が欲しいと思う。絵麻みたいに料理が上手で、可愛い守ってあげたくなる女の子ならシエルも気づいてくれるかな……と柄にもなく思考のループにはまることがある。自分が「守ってあげたい」というのには正反対の位置にいることは自覚していた。
 内戦が続く世界だし、生い立ちを考えれば、自分が守ってあげたいような女の子なら、とっくの昔に死んでしまっていただろう。だからこの性格は唯美の誇りだし、アイデンティティなのだが、時折この性格が災いしていると思うことがあるのもまた事実だった。
「もう、こんなんで悩むなんてアタシらしくない!」
 帽子を取り、前髪をぐしゃぐしゃとかき回す。そんな唯美の様子を、周囲の女の子達が不思議そうに見ていた。
 結局、一時間近くは悩んだだろうか。チョコレートを買い終わった時にはぐったり疲れていた。
 ため息をつきながら店を出ると、道でリョウに出くわした。
「唯美?」
「え、リョウ? なんでここにいるの?」
「買い物よ」
 彼女は腕に紙袋を抱えていた。いろいろな品物が入っている袋から、煙草の一カートン入りのケースが飛び出している。
「唯美、チョコ買いに来たの?」
「べ、別にっ」
 笑いながら聞かれ、唯美はそっぽを向いた。
「エヴァーピースだとあんまり種類は見れないもんね」
 お見通しだとでもいうように、リョウは微笑んでいた。
「リリィの言ってたこと、本当だったんだ」
「なっ……」
 唯美は腕を振り回してリョウの頭を叩こうとしたのだが、背の高い彼女には届かなかった。しかも、あっさり受け止められた。
「〜〜〜っ!」
「街中で暴れないの! チョコレート割れちゃうよ?」
 二撃目を繰り出そうとして、リョウに止められた。
「……」
 項垂れた唯美の頭を、リョウは子供をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「別にからかおうってつもりじゃないのよ? ただ、ちょっと意外だったもんだから」
「意外……か」
 リョウとの付き合いは結構長い。だから、リョウは唯美が復讐にかられていた頃のことを知っている。殺意に目をぎらつかせていた十五の少女と甘いチョコレートの組み合わせは、確かに意外だろう。
「唯美が人を好きになってくれて、お姉さんは嬉しい」
「お姉さんって」
 違うでしょ、という否定の言葉を飲み込む。実際にリョウのような姉がいたとしたら、それは嬉しいことだった。
「シエル、いい奴だしね。単細胞でシスコンが行き過ぎてて守銭奴だけどさ」
「それだけあったらいい奴って言えないと思うんだけど」
「でも、そこがいいんでしょ?」
 さらりと言って、リョウは唯美を見た。少し迷ってから、楽しげな紫の瞳に頷き返す。リョウが面白半分にからかっているわけではないことを知っているから。
「かなりアピールしないと伝わらないと思うから、頑張って」
「単純バカな挙句超鈍感だからなあ……」
 ぼやいて、空を見上げる。
 夕焼けのオレンジが空の半分を染めていた。
 決戦は明日、バレンタインデー。

*****

 バレンタインデーは平日だった。
 絵麻は帰ってきた相手から順にケーキを切り分けていた。ザッハトルテはなかなか好評で、絵麻はそれだけで嬉しかった。
 哉人と封隼はそれぞれ職場からもらってきたらしく、小さな板チョコが台所のテーブルに置いてあった。それに加えて、リョウとリリィからのチョコレートが一緒に乗っていた。ちょっとしたお菓子の山だ。
「チョコレート屋が開けそうね」
 唯美が半ば呆れたように言って、封隼の前に包装された小箱を置いた。
「唯美姉さん?」
「煮るなり焼くなり好きにしていいわよ」
 開けてみると、中には色とりどりのチョコレートが入っていた。
「わあっ、とっても可愛い!」
 封隼の隣の席にいて、一緒に包みを覗き込んだアテネが歓声をあげる。
「……煮ないし、焼かない」
 封隼はいつもの無表情だった。唯美も、それ以上は何も言わなかった。でも、その光景を見ていた絵麻は、封隼が物凄く喜んでいるとわかる気がした。ザッハトルテを食べていたリョウも同じ考えだったようで、ふと絵麻と目線が合って同時に笑みがこぼれた。
「ただいま」
 その時、信也が帰ってきた。
「あ、おかえりー。信也、ちょーだい」
 言うと、リョウはブレスレットをつけた左手を信也に差し出した。
「ああ」
 信也は荷物の中から板チョコを二枚取り出すと、リョウが差し出していた手に乗せた。
「ありがと」
「あれ? 逆じゃない?」
「これでいいんだよ」
 好きな人に渡すという点ではあっていると言えるのだが、絵麻の視点からは信也が尻に敷かれているように見えてしまった。
 周りにいたみんなも同じ気持ちだったようで、不思議そうに二人を見ている。
「はい」
 リョウはもらったチョコレートをポケットにしまうと、戸棚から煙草の一カートンパックを出してきた。昨日、隣町で買い出ししていたものだ。
「サンキュ」
「? 交換、するの?」
「俺たちだけだと思うけど。俺、チョコレート苦手だからさ」
 子供の頃から、もらったチョコレートはリョウに渡していたのだそうだ。その代わりに、リョウは信也にプレゼントをする。ここ数年は信也のリクエストで煙草に決まっているとのこと。
「カップルの数だけバレンタイン、かあ……」
「いいな、そういう約束」
 言った後で、絵麻ははたと思い当たった。
「チョコレート苦手ってことは、信也、もしかしてザッハトルテ食べられないんじゃ」
「チョコレートとか、こってりした生クリームとかじゃなければ食べれるぞ」
 これは初耳だった。絵麻は普段からお菓子を作るのだが、チョコレートや生クリームはあまり使わない。そんなに簡単に手に入らないからだ。
「このケーキ、とっても甘いよ。チョコいっぱい!」
「絵麻の力作だもんね」
「絵麻の力作は食べたいけど、極端に甘いもん食べると吐くんだよな……」
 信也は食べたいのだか食べたくないのだかわからない目で、切り分けられたケーキを見ていた。
「一口だけ食べれば? チョコのとこはずしてあげるから」
 リョウが苦笑いしながらフォークを取ると、自分のケーキからチョコレートの部分を避けて一口切り取り、信也に食べさせた。
「おおー」
「ラブラブだね!」
「ただいまー」
 その時、シエルが帰ってきた。
「お帰り」
 唯美は持っていた袋から簡単な包装の箱を出そうとしたのだが、動きはアテネの方が早かった。
「お兄ちゃん!」
 アテネは飛び跳ねんばかりの勢いで自分の前に置いてあった紙包みを取ると、玄関に走った。シエルを引っ張るようにして戻ってくる。
「ちょっ、アテネどうした?」
「お兄ちゃん、はい!」
 アテネはシエルに、紙包みを差し出した。
「おっ。これはもしかして……」
 シエルががさがさと紙をはがす。そこから出てきたのは、大きさが顔くらいありそうなハート型のチョコレートだった。表面にはホワイトチョコで『お兄ちゃん大好き』と描かれ、その横にアテネの似顔絵までチョコで描かれていた。
「すっげー! アテネ、これ作ったのか?」
「うん! でも、アテネだけじゃできなくて、絵麻ちゃんに手伝ってもらっちゃった」
「アテネ、頑張ったんだよ」
「そっかそっかー」
 シエルはチョコを片手に小躍りしたあと、アテネを抱き寄せて何度も頭を撫でた。
「ありがとな、アテネ。兄ちゃん、すっげー嬉しいよ。やっぱ本命チョコは手作りに限る! このチョコは一生食べずに保存しとくぜ」
 その言葉で、唯美の額に青筋が立ったのを見たのはリョウだけだった。
「ダメだよ。ピンチになったらちゃんと食べてね?」
「はーい」
 言うと、シエルはアテネの前髪をかき上げ、額にキスした。アテネがきゃーっと歓声をあげる。
「シエル……」
「シスコンもここまでくると立派というか病気というか」
 そんな兄バカもといバカ兄を見ていた唯美はふるふると拳を震わせていた。リョウだけがその事態の深刻さに気づいていたのだが、時既に遅し。
「バカヤロー!」
 唯美は叫ぶと、手にしていた包みをシエルの脳天に叩きつけた。ぬけるような快音が台所に響く。
「痛ってぇ。何するんだよ唯美?!」
「この単純バカ! シスコン! 守銭奴! チョコなんか用意しなければよかった!!」
 叫ぶだけ叫ぶと、唯美は階段を駆け上がって行ってしまった。
「あ、唯美!」
「ってえなあ。オレがアイツに何したってんだよ」
 シエルが緩く頭を振ると、乗ったままだった包みが落ちてきた。あっけなく解けたその中には、半分に割れたハート型のチョコレートが入っていた。
「何だよアイツ。イヤミか?」
「……」
 シエル=アルパイン。
 この鈍い性格を直さない限り、本命チョコをもらえる日は永遠にこないと思われる。

*****

 騒動の少し後、絵麻は翔のために焼いたケーキを持って外に出た。翔に渡すためである。
 翔が帰ってくるのを待って渡してもいいのだが、みんなの前で渡したらひやかされる気がする。それは嫌だった。
 だから、翔の帰り道で渡そうと思ったのだ。一本道だから、すれ違うことはないだろう。
 頑張って作ったザッハトルテは好評だった。翔は喜んでくれるだろうか。いつもみたいに笑って食べてくれるだろうか。そんなふうに考えると胸がどきどきして、頬が真っ赤に染まってしまう。片手で朱色に染まった頬を押さえてにこにこしながら歩く少女を、街の人は不思議そうに眺めていた。
 店が並びはじめる大通りで、絵麻は帰ってくる翔の姿を見つけることができた。
「しょ……」
 名前を呼ぼうとした時、翔の前に数人の少女が出てきた。絵麻と同じ年頃か、少し上だろうか。
「?」
「明宝さんですよね?」
「はい。何か?」
 足を止めた翔に、少女は手にしていた包みを差し出した。
「あなたが好きです! これ、受け取って下さいっ!」
 その瞬間、絵麻は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。
 翔が告白されている?! 確かに翔は優しいし、顔立ちも調っているから、女の子から好意を寄せられないはずがないのだ。なんでそのことに思い当たらなかったのだろう。
 自分だけの翔だというわけがないのだ。
 翔はいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、少女を見下ろしていた。少女は頬を染め、言葉を続ける。
「あたし、PC本部受付のナナリーといいます。ずっと見てました。中に手紙が入ってるんで、読んで下さい!」
 少女は真っ赤な顔でそれだけ言うと、友人と共にぱたぱたと走り、絵麻の横をすり抜けていった。やっと渡せたね、とはしゃぎながら。
「……」
 翔はもらった包みを眺めていたのだが、やがて片手にぶらさげていた袋の中に無造作に放り込んだ。袋は大きく膨れている。中身はもらったチョコレートなのだろう。
 そう思ったら、急に世界が暗くなったように感じた。暗くて寒い。ひどく悲しい。
 翔は歩き出そうとして、呆然と立ちすくむ絵麻を見つけたようだった。小走りに駆けてきた。
「絵麻。どうしたの? 買い物?」
「あ……あの……」
 さっきまでのぽかぽかした気分が嘘のように、今の気持ちは暗くて冷たくて、みじめだった。
「ね、それもしかしてチョコレート?」
 翔は絵麻が持っていた包みを指した。
「うん。ザッハトルテ……チョコのケーキ」
「ホント?! ホールひとつ僕がもらえるの?!」
 翔は心の底から嬉しそうに瞳を輝かせた。
「嬉しいな。早く食べ」
 翔はケーキの包みに手を伸ばしたのだが、絵麻はそれを遠ざけた。
「でも、翔さっきチョコもらってたじゃない。その袋にもいっぱい入ってるじゃない! 別にいらないでしょ?!」
 絵麻は駄々っ子のように首を振った。
「何でそんなこと言うの?!」
 翔は言うと、悲しげに絵麻を見つめた。
「僕は絵麻からもらえたら、他はいらないもの。絵麻からもらえたら、それでいいんだ。他のなんていらないよ」
 あっさり言うと、翔は絵麻の手からケーキの包みを取り上げ、自分が持っていたチョコレートの袋を押しつけた。
「え」
「絵麻の気持ちだけ、欲しいんだよ」
 翔はまっすぐに絵麻を見つめていた。
 その言葉で、真っ暗で冷たかった絵麻の心が晴れた。ゆっくりと、微笑みが広がる。
「翔……」
 信じられないほどあたたかくて、はやる鼓動が心地いい。
「でも、他の人からもらったのもちゃんと食べてね? 気持ちのこもったものなんだから」
「僕は絵麻の気持ちだけ受け取れたらそれでいいんだけどな」
「……翔って、女の子の気持ちわかってないね」
 絵麻の鋭い視線を受けて、翔は苦笑いした。絵麻の手に押しつけた袋を受け取り直す。
「非常食として大切に頂きます。でも、その前に絵麻のケーキ食べる」
 早く帰ろうと、翔は絵麻を急かした。そして二人は肩を並べて歩き出した。
 どうやらこの二人は、天下無敵のハッピーエンドで終わるようである。
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