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「また読んでるの?」
 リョウの声に、絵麻は本から目を上げた。
 リョウは絵麻の読んでいた内容をざっと見ると、小さく息をつく。
「面白くないでしょう。こんな本」
「ううん」
 絵麻は首を振った。
「ちゃんと知りたいから……わかりたいから」
 絵麻が読んでいたのはベナトナシュに関する専門書だった。
 翔の部屋の本棚の片隅に、ひっそりと置かれていた。主のいなくなった
部屋から絵麻が借りてきたのだ。
 元々字を読むのが苦手なうえに、専門用語の頻発する本なのでとても読
みにくい。
 でも、絵麻はこれも借り物の辞書を脇に置いて、時間があるだけ読み続
けた。
 ベナトナシュは14年前、国府シンクタンク副所長をはじめとする数人に
よって発表された。その数人の研究者の中に「和泉聖悟」の名前があった。
 年齢や役職は詳しく記載されていなかったが、基礎を発見したのはこの
和泉聖悟だということは間違いないようだ。そういう記述が何ヶ所も出て
くる。
「わかっても、苦しいだけかもよ?」
 翔がユキと暮らしているのは、今では周知の事実だった。
 ユキの寮に転がり込む形で同棲しているという事実無根の噂を、絵麻は
メアリーから聞いた。ショックを受けなかったといえば嘘になるけれど、
冷静に対処した。
 それより堪えたのはディーンやケネスの素朴な質問のほうだった。
「翔兄ちゃん、出ていっちゃったの?」
「普段あんまり会えないけど、翔兄ちゃん、優しかったのにな」
 会いたかったなと、ケネスは続けた。
「ねえ、どうして翔兄ちゃん出ていっちゃったの?」
 絵麻は答えられなかったし、一緒にいたリリィもそうだった。
 出て行かなくてもよかったのにと思う。
 ユキの側は翔にとって居心地のいいものではないのは明らかで。
 居心地がいいというより、針のむしろだろう。ずっと口汚くののしられ、
罪を償えと罵倒される。
「翔が何をしたのよ……」
 絵麻の口から出た言葉の、呪うような響きにリョウは驚いたようだった。
「だって、14年前だよ? 翔は6歳になるかならないかでしょう? そん
な子供が自分から爆弾作るわけないじゃない! 人を殺したいなんて望む
わけないじゃない!」
「そうだね」
 リョウの声は静かだった。絵麻をなだめるように、いたわるように。
「戦争は嫌だね。内戦さえなければ、爆弾の研究なんて廃れちゃうはずな
のに」
「……」
 絵麻は何度も何度も頷いた。
「爆弾とか、地雷とか。人の命も奪うし、生き残っても体が不自由になる
人は大勢いるし、残された人の悲しみって大きいし」
「リョウは、翔のこと怒ってる?」
「ううん」
 彼女は首を振った。短い髪がはらはらと揺れる。
「怒れるわけないじゃない。あたしだって人を殺してる。医者なのに、何
十人何百人殺してる。いつあの人みたいに復讐したい人が来てもおかしく
ない」
「わたしも人殺しだよ」
「誰でも、何かの罪を犯してると思う。自分だけが傷つけられた、あいつ
だけが悪いなんて言えないと思う。その人は軽い気持ちでからかっている
んだとしても、その言葉が相手を一生苦しめることだってあるんだから」
 静かな言葉に、絵麻は自分の同級生たちの心ない態度を思い出していた。
 彼らは、遊んでいただけだろう。絵麻というオモチャで遊んでいただけ
だろう。
 でも、絵麻はそれが嫌だったし、投げられた言葉に苦しんだ事だって何
度もあった。
「絵麻、無理はしちゃだめだからね」
 リョウは言って、席を立った。
「絵麻が苦しむ事、翔はいちばん望んでないと思うから」
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