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 翔は自分の机に試薬を何種類か用意し、組み合わせや量を変えて試して
いた。
 火傷跡の酷い手が、光を弾くガラス管に映った。
「えっと、次はパターンAとパターンCを7:3……」
 表と照らし合わせて、反応を細かく確認する。
「翔、それパターンBだ」
「えっ?!」
 ふいに脳裏を、自分の体が炎に焼かれ、バラバラに飛び散るビジョンが
浮かんだ。
 あまりに生々しい記憶。
「わああっ!」
 翔は手にしていたガラス管を取り落とした。
 ガシャンと甲高い、派手な音が響いて翔の周囲がガラスの破片の海にな
る。
「あーあ」
「どうした? たかだか試薬間違えただけでそんなに驚いて」
「あ……」
 翔は片手で顔を覆った。
 自分の手が熱い。
「翔」
 その時、笑いを含んだ声が翔のすぐ側でした。
 スレンダーな体を白衣に包み、黒髪を短く切り揃えた美人がそこで笑っ
ている。
「全く、そそっかしいんだから」
 彼女は杖をつきながらも、砕け散ったガラン片を片付けようとした。
「福田さん。僕がやるから」
「やだ。ユキって呼んでって言ったじゃない?」
 翔が止めるのを意に介さず、ユキと名乗った女性はてきぱきと片付けを
はじめる。
「翔。皆さんも実験を続けてください」
「悪いね、ユキちゃん」
 研究者たちは口々に礼を言うと、自分の仕事に戻って行った。
「ユキはいいね。体が不自由なのに朗らかで」
「頭がいいのにひけらかさないしね。国府シンクタンクの隠し玉だって言
うじゃないか」
 ユキは1週間前に国府系列のシンクタンクから、PCに引き抜かれてき
た。
 国府系列ということは、貴族にもつながる上流階級の出という事だ。し
かし彼女はそれを自慢にするわけでもなく、積極的に、けれどつつましや
かにPCの、男ばかりの研究室に溶け込んだ。
 男所帯がそんな女の子を拒むわけがない。えてしてそういうものである。
 まして、ユキは美人なのだ。
 PCが定時になり、帰り支度をしていた翔のところにユキが歩いて来た。
「翔」
「……何」
「今日も一緒に帰っていい? いいよね?」
「……」
 翔は何も言わなかったが、ユキは「支度してくるから待っててね」と研
究室のロッカーの方に歩いて行った。
「翔、お前ユキと仲いいよな」
「年が近いからか? 得だよなー」
 ばしんと背中を叩かれ、翔は眉を寄せた。
「そんなんじゃないです」
「お前だってもう20歳だろ? 流石に嫁さんもらわないとマズいだろ」
「……失礼します」
 翔は頭を下げると、廊下に歩み出た。
「ねえ、翔ってば! 待ってよ」
 しばらくしてユキが後を追いかけてくる。杖をついた足を引きずりなが
ら。
 けれど、翔は歩調を緩めなかった。
「待ってよぅ……」
 ユキの声はいつの間にか、研究室にいる時とはまるで違った甘ったるい
物になっていた。
 しかし、それでも翔は歩調を緩めもしなければ、振り返りもしない。
「もぅ……待てって言ってんだろ! 聖悟!!」
 表通りに出た時、人ごみの中でユキが叫んだ。
 キンキンと甲高い、耳障りな声だった。
 周囲がじろじろとユキと、そのユキが灰色の瞳でにらみつけている翔を
見て行く。
「……」
 たまらず足を止めた翔にユキは追いつくと、腕を絡めた。
「行きましょ? 今日は喫茶店のケーキ、半分こしましょうね」
 ユキの声は再び甘い物に戻っていた。
 この状態で帰れるわけもなく、翔はユキと喫茶店の席で向かい合わせに
座った。
 ユキの方にはハーブティーとチョコレートケーキ。翔はコーヒーだけ注
文して、バリケードを築くように机に大量に本を積み重ねていた。
「ケーキ半分こしようって言ったのに」
 ユキは膨れるが、ふと思いついたような表情になって自分のケーキをひ
とかけフォークに乗せると、身を乗り出して翔の口元に差し出した。
「はい。あーん♪」
 どう見ても恋人同士の光景だろう。
 けれど、翔は何も答えなかったし、瞳は相手を刺すように鋭かった。
 絵麻や仲間には絶対に見せない瞳。絶対見せない顔。
「……何よ」
 ユキの表情も不快そうに崩れ、彼女はフォークを置いた。
 彼女は杖を取ると、それでぱしぱしと翔のジーンズの足を打った。
「いいね。健康な足があって」
 ユキは自分のスカートをずらす。そこには木で作られた粗末な義足がく
くりつけられていた。
「目も見えるんだよね。左の眼球は誰のものだったっけ?」
「……それ以上言うな」
 翔は初めて感情を表に出した。
 怒りと不快感で顔が歪んでいる。噛みしめられた唇は、今にも切れて血
があふれそうだった。
「僕の前に姿を見せるな」
「よく言うわね」
 にこりと、ユキが笑う。
 ユキはこの状況を心から楽しんでいるようだった。
「誰が何と言おうと、アタシはアンタを許さない。アンタに幸せの権利は
ない」
 そう言って、愉快げに笑った。
「何度だって言うし、国中に叫んでもいいわ。だって、これ、事実だもの。
 アンタは悪魔よ」
 翔はそこで、きつく目を閉じた。
 苦い物を無理やり飲み込むような、そんな表情だった。
「ずっとずっと言い聞かせてあげる。ずっとずっと呪ってあげる。だから
翔、ずーっと一緒にいましょうね?」
 ユキは笑顔だった。その顔にそれ以外の感情は一切なかった。
 ただ見ている分には、我侭な恋人に振り回されている、幸せなカップル
に見えるだろう。
 その光景が真実ではない事を知っているのは当人たちだけだった。

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