桜の雨が降る------4部1章4

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 帰宅後、メリールウはもういつものとおりに歌を歌っていた。優桜がスープを作るのに悪戦苦闘している間に、彼女は歌いながら洗濯物を取り込み、風呂の掃除をしてしまった。優桜が知る限り、メリールウは少なくとも二年はここで一人暮らしをしている。だから手慣れているのだろう。
「ひーかーりーのーはーなーがー……ユーサ、そろそろ出来た?」
 普段は広げたままの赤い髪は、作業の邪魔にならないようにかひとつ結びにされ、それでも元気が有り余っているとみえて彼女の背中で束になってはねていた。
「こんなんでいい?」
 優桜はスープを小皿に取って、メリールウに味見してもらった。
「ん。オイシイよ。じゃ、あとは火が通るまでぐつぐつしたらいいね」
「さっきのは何の曲? 結構好きかも」
「『陽だまりの粒』。おひさまがキラキラする曲。あたしも好きなの」
 コンロで煮えている鍋のスープには、メリールウの目と同じくらい真っ赤で小ぶりの野菜と、薄く伸ばした細長い生地に包まれた肉が浮かんでいる。優桜の手や頬にはところどころ粉が白く貼り付いたままだった。
 この料理を最初に見た時の優桜の衝撃は凄かった。イチゴと餃子がコンソメスープの中に浮いている現場を目撃したと言えば伝わりやすいだろうか。その時、空腹でなければ理由をつけて食べなかったかもしれない。
 でも、この料理はとても美味しいのだ。野菜はイチゴのようにこそ見えるものの甘くなくほくほくとしていて、優桜の感覚でいうとじゃがいもに近い。見た目は餃子に見える包みも、大蒜は使われておらず、先ほど買った挽肉に塩をして粉を伸ばした生地でくるんだものだ。要するにじゃがいもと肉のスープなのである。煮えるにつれて美味しそうな香りと湯気が部屋を満たしていく。
「テーブル作ってしまうね」
 優桜はいそいそと手を洗い、着ていたカーディガンを椅子の背にかけると、食器が収めてある棚から二人分の椀を出した。メリールウがよそってくれる間に、スプーンとコップを出して食卓を整える。お米を食べたいところだが、残念ながら手に入りにくいため、スープのお供は保存用に堅く焼かれた黒パンだ。
「いただきます」
 手を合わせてから食べ始める。このスープは熱いくらいのうちに食べるのがいちばん美味しい。メリールウは翌朝の冷たい状態でも楽しんでいるが、優桜は堅いパンに熱々のスープをしみこませてやわらかくしたものがいちばん好きだ。
「あれ、やっぱりちょっと味が薄いかな?」
 メリールウが作ってくれたときより、ほんのちょっと味が違う気がして優桜は首を捻った。メリールウが作ってくれる方が美味しかったように感じる。
「そう? とってもオイシイよ。そういえばユーサ、探しものはみつかった?」
 メリールウに聞かれ、優桜は考えてから首を振った。
「辞書をひきながらだから、あんまりすぐにはわからない。でもちょっとはガイアに詳しくなった、かな」
 それが優桜の正直な感想だった。
 メリールウはにこにこ笑うと、子供のような声音で「そっか」と短く言った。
「ユーサ、最近ずっと熱心ね。お兄さんの声が聞こえてから」
 いきなり言われて、優桜は飲もうとしていたコップを慌てて置いた。うっかり飲んでいたらむせ返したかもしれない。あんな夢を見たあとでもある。しかし、受難はここからだったわけだが。
「ユーサ?」
 突如慌てだした優桜に、メリールウが不思議そうな顔をした。
「どしたの?」
「だって、いきなりそんなこと言われたら焦るよっ」
 優桜はテーブルの縁を両手でつかむと、力いっぱい主張した。
「あたし、そんなにヘンなこと言ったっけ?」
 メリールウはますます不思議そうに声のトーンをあげた。
「お兄さんのこと聞いただけ。ユーサの世界はお兄さんのこと聞くとおかしい?」
 そこで自分の誤解に気づいた優桜は、二重の意味で赤面した。
「……おかしくないや」
 ここは現代じゃない。優桜が話していないのだから、誰も明水のことを知らないのだ。
 目に見えてしゅんとした優桜の頭を、メリールウの手がぽふぽふ撫でた。爪は短くマニキュアも塗られていないが、褐色の肌と並ぶとほんのりと薄紅色を刷いたように見える。
「ユーサのお兄さん、焦っちゃうくらいにすっごく格好良いんだね」
 メリールウが笑う。声に揶揄する調子がないから、たぶん、彼女の率直な感想なんだろう。メリールウの発言に裏の意味はないことを、優桜はわかりはじめていた。
 だから、優桜も頷いた。クラスメイトにするように見せかけの姿勢は取らなかった。
「うん。とってもカッコイイよ」
「あたし、会ってみたいな。でも無理か」
 そういえば、生徒手帳に明水の写真を入れているのだった。優桜の高校の生徒手帳は、最後のページがクリアケース仕様の空欄になっている。以前はこのページに学年とクラス、緊急連絡先が書かれたカードを入れるよう指導されていたのだが、個人情報の取扱いが厳格になったことでカードは廃止され空欄になった。単なるカード入れになったその部分に好きな相手の写真を入れるのが女生徒に流行し、優桜はこっそりと明水と写った家族写真を入れた。
 優桜のこの秘密を知っているのは花音だけである。花音には他校に友達以上恋人未満の幼馴染がいて、その写真を見る交換条件で優桜も手帳を渡したのだ。その相手も剣道をやっているので、優桜は実は彼と面識があるのだが。そこは女の子の社交辞令というやつだ。
 メリールウは、そういう駆け引きを考えなくてもいい相手だと思う。そもそも学校の友人ではないのだし。
 そう思って、優桜はポケットから生徒手帳を取り出した。
「写真ならあるよ」
「ホント? 見せて見せて!」
 メリールウは優桜の学校友達を思い出すノリと勢いで優桜の手から手帳を受け取った。ぱっと開いて、写真を見て、そして――困惑したように赤い眉を下げた。
「お兄さんじゃなくてオジサン?」
「オジ……サン?」
 予想の斜め上を行く言葉に、優桜はびっくりした。考えていたのとは別の意味で頬が紅潮する。
 確かに明水は優桜より九歳年上なのだが、二十代半ばなのでまだおじさんではないと思う。それに、こういう時は思っても言わないのではないだろうか。
「ユーサの兄弟なのに年が離れてると思ったから」
 優桜の雰囲気が変わったのに気づいたのか、メリールウがやや早口に言い足す。
 反論しようとして、優桜はようやくメリールウの誤解に気づいた。
「もしかして、兄弟だと思ってる?」
「ちがうの? お兄さんでしょ?」
 優桜は息をついた。
「イトコのお兄ちゃん。実のお兄ちゃんじゃないの。ごめん、説明足りなかったね」
 確かに優桜は兄ちゃんとしか呼んでいないのだから、普通は兄弟を連想するだろう。メリールウが間違ったのは当たり前だ。
「びっくりしたー」
 メリールウが口元に手を当てる。少し考えこんだ後で、彼女はひまわりの花のように笑った。
「あー、だからユーサは照れてたのか!」
 優桜は思いっきりテーブルに頭をぶつけた。結構派手な音がした。
「確かにイトコだったらアタックできちゃうもんね。そっかそっかー」
 その後、優桜とメリールウの会話が弾まなかったのはいうまでもない。
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